退院した今思うこと

入院中は、ベッドのサイズ+半畳くらいの空間が暮らしのほぼ全てだったので窮屈だなと思うこともあったけれど、その分自分の感覚というものに妙に敏感になっていたと思う。
最初にそう思ったのは、イヤホンをしながらテレビを見ていて、たぶん声をかけてから入ってきたであろう看護師さんに飛び上がるように驚いてしまったときだ。
完全に油断しきっているところだったので、そのショックは相当なものだった。そんな患者の反応には慣れているベテランらしき看護師さんはごく自然に対応してくれたが、私は看護師さんが去ってからもしばらくドキドキしていた。
おかしな話だが、私はようやくその時、自分の居場所がカーテン一枚で外界と隔てられた非常に頼りない場所なのだと実感したのだ。

次にへぇと思ったのは、朝の診察待ちの時だ。朝8時半になると処置の必要な入院患者は処置室の前に並ぶことになっていた。全員それなりの病人なので、時間になると廊下に椅子が並べられ、そこに座って待つことになる。5分10分の短い待ち時間ではあるが、少し手持無沙汰な時間でもある。
私の右隣に座っている二人は何やら親し気に会話を交わしている。入院中に雑談ができる人がいるというのはいいものだなと思い、さて、では私も、と左側に座る女性の様子をうかがうが、どうにもこうにも最初の一言が出てこない。
その人はたぶん私と同世代の女性で、ごく真面目そうな人だ。もちろん連れがいるわけでもない。
例えばこれが好きな歌手のコンサートの入場列なら、なんの気なしに話しかけられたと思う。「混んでますね」とか、「なかなか進みませんね」とか、内容なんてあってもなくても、なんとなく会話を始めることができる。
ところがだ。ここでは何をきっかけに話したらよいのか分からないのだ。
入院中はずっと室内なので天気や気温の話はおかしいし、食事だって症状によって違うので、朝ご飯の感想を共有できるとは限らない。だからといって初対面の相手に病状を聞くわけにもいかない。何と話しかければいいのか悩んでいる間にその日は名前を呼ばれてしまった。

翌朝のことだ。もう雑談相手を求めるのは諦めようとおとなしく座っていた私に、隣にやってきた女性が声をかけてきたのは。
彼女の第一声は「何日目なんですか?」というものだった。「その手があったか!」と思った。その人はもう1週間ほど入院していて、あと数日で退院するということだった。
後になって分かったことだが、彼女はその気さくな性格から院内の多くの人とコミュニケーションをとっており、手術後2日ほどしか経っていない私が自分よりも後に入院したことは先に分かっていたのだと思う。
それはともかく、どんな病気か分からない相手に最初にかける言葉として、「何日目なんですか?」はその時の私にとって、自分では見つけることのできなかった最良の質問に他ならなかった。
「5日目です。おととい婦人科の手術を受けたんです」というと、「私も婦人科。○○(病名)で、入院するのは2回目なの」と屈託なく語ってくれた。話をする中で、彼女がかつてこの病院で働く看護師さんだったことが分かったときには大いに膝を打つ思いがしたものだ。あの軽やかな声かけはプロの技術だったのだ。彼女と交わした最後の会話は、「この病院はいい先生と看護師がそろっているから、きっと大丈夫よ」というものだった。心身ともに弱っている人間にこれほど効く言葉はない。元看護師の彼女の言葉となると、その力は、100人力、1000人力だ。思えば、最後の最後まで、彼女はプロだった。
彼女の退院後、私が隣に座る人に「何日目なんですか?」と声をかけたのは言うまでもない。

今思えば、大したことではない。隣の人と話せないことをなぜあんなに焦っていたのか、我ながら不思議なくらいだ。でも、あの狭い空間では、そんな些細なことが大問題になる。「頼れるのは自分だけ」という環境だからこそ、自分の頼りない部分がクローズアップされて迫ってくるのだろう。
それに、考える時間だけは本当に腐るほどあるのだ。

入院生活は窮屈だし、退屈だし、心身ともに痛いことも多い。
けれど、私にとって今回の入院は自分と向き合う貴重な体験だった。
化粧や洋服はもちろん、仕事も趣味も人間関係もすべて取り払われたあの堅いベッドの上で、私は私という人間を改めて体感したような気がする。
結構臆病で、そのくせ痛いときに痛いと言えない妙な頑固さがあって、人の優しさに弱くて、大事なところが抜けていて、それでも何とかなると漠然と信じている自分という人間と、少しだけ仲良くなれた、そんな感じだ。

あの窓際のベッドの上で、今日も誰かが自分自身との禅問答に苦悶しているかと思うと胸が苦しいような気がする。
そして、もしできることなら、こう声をかけたいと思うのだ。
「ここはいい先生と看護師のそろっている病院だから、きっと大丈夫です。ここに入院していた元看護師さんがそう言っていましたよ」と。

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