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気づき

新年あけましたね。

昨日はなんだかすごく「気づき」のある日でびっくりした。きっかけはあるメール。意外な人からの仕事のお誘いだった。やりたいけれどやりたくない。やりたくないけれどやってみたい。本当はどうしたいのか、自分の本心がわからなくなっていた。

決められないまま「よしばな 日々だもん」を読んでハッとする。98歳の美代おばあちゃんのやさしい顔が、昨年亡くなった父と重なった。

父は晩年、認知症になり、おかしなことを言い続けていたが、ごはんを食べられなくなったあたりから、言葉も出なくなっていた。でも、人間て不思議。本当の最後の最後には、なんだか頭が冴えていたような気がする。亡くなる数日前、わたしの目をしっかりと見て、なにかを伝えようとしていた。

「・・・た・・・、・・・た」。耳の悪いわたしは、かすかな声から「た」しか聞き取れず、結局父がいいたかったことを理解できないままだった。それがずっと心に引っかかっていた。父はなにを言いたかったんだろう。

そんなことを考えていたら、父の入院中のこと、自宅介護のことなどを芋づる式に思い出してきた。

父の介護中、わたしはできるだけ自分の意思をなくそうと試みていた。家族の方針に従って、できることをやる。いやだとかやりたくないとかいう意思は、とりあえず忘れることにしようとしていた。そうでなければとっくに逃げ出していたと思う。わたしは人の世話をすることに、恐ろしいほどまったく向いていなかった。

なかでも一番辛かったのは、認知症の専門病院に入院中、別の病気を発症して1か月半転院した時期だった。転院先の病院には、1日おきに行っていた。自力で食べられなくなった父の、食事の介助をする必要があったからだった。そこは霊感がまったくないわたしにもわかるくらい、空気が違っていた。どーんと重いものに包まれるような気配があった。

どうしても行きたくないのに、でもわたしが行かなければいけない事情があって、毎回ものすごく苦しかった。バスに乗り換えるとき、辛くて涙が止まらないこともあった。でも「行きたくない」という気持ちが、父を拒絶することに繋がる気がして、なにも感じないようにすることに集中しようとがんばった。

あれはきつかったなぁ。そんなことを思い出しながら「よなよな」を読んでいたら「『違うこと』をしないこと」に収録されている、ばななさんとプリミさんの対談を読み返したくなった。

びっくりした。最初に読んだときと、理解度が格段に違っていた。以前はうまく飲み込めなかったことが、すんなりと水を飲むように体に入ってくるような感覚だった。読み進めながら、あの病院に無理して通うことは、わたしにとって「違うこと」だったのかもなぁ。と思ったときだった。

突然、頭のなかに「悪かったなぁ」という父の言葉が降りてきた。

どこから来たのか、父の声なのか、自分の声なのか、区別がつかなかった。それでもこの言葉こそが、父がわたしに伝えたかった言葉だ、という確信だけが強くあった。

父はきっと気づいていたんだろう。わたしが無理をしていたことに。そしてそれを、死ぬ前に自分の言葉で労いたかったのだと思う。いかにも父らしいことだった。

わたしはおいおい泣いた。父を見送った時よりも。お葬式のときよりも。犬がわたしを心配そうな目で見ていた。

もう「違うこと」はしたくない。生きている時間のなかで嫌な気持ちになる時間はできるだけ少なくしたい。それに気づかせてくれてありがとう。

わたしは、わたしと違わない気持ちでメールの返事を送った。








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