痛み分け

たくさんのきっかけがあった。ことのはじめは鉗子分娩であったことかもしれない。母は繰り返しわたしにわたしの出生時のことを語った。難産で長時間苦しんだこと。生まれ出た赤ん坊の頭に鉗子の型が赤く残っていたこと。変形した頭がビリケンみたいでちっともかわいいと思えなかったこと。
出産時に迷惑をかけたことは申し訳なく思うが、わたしとてわざと母を苦しめようとしたわけではない。わたしも痛くて苦しかった。それも母のせいではない。文字通り、痛み分けだ。
痛みに至る経緯は、ある程度まで言語化されて脳に記憶されている。その記憶を整理したり、もう一段精密に言語化することで、痛みの問題に近づく方法もある。実際、文字に書き起こしたり、人に話したりすることで、痛みそのものは変わらなくとも、捉え方は変えられる。有効な手段だと思うが、この方法は自分の場合は継続させるのが難しい。言語化しようとすれば、痛めつけられていた場面に再度立ち会わなくてはならない。そして自分が言語化したものを読み直せば、またしてもそこに立ち戻る。何度も何度もつらいのだ。

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