夜のちからを

こどもの頃、昆虫図鑑で蝉の羽化の解説文を読んだ。深夜から明け方、土から出てきた幼虫が木の幹に上る。殻の背中が割れて中から成虫が出てくる。成虫は一旦頭を下にしてぶらさがり、頭を上に戻す。そこでしばらく羽や体が安定するのを待ち、朝、飛び立つ。そのような説明だったように思う。その見開きにあった写真、羽化したばかりの淡い翡翠色の蝉にこころを奪われた。羽化したての透きとおるような蝉を見てみたいと思った。
随分年月が経ってから、その機会が到来した。谷町に転居した最初の夏、牛乳を買おうと深夜のコンビニに行くと、コンビニの前の植栽のアベリアの茎に、羽化したばかりの白っぽい蝉がぶら下がっている!
うれしさに思わず近寄って、ぎょっとした。わたしが見ていた蝉から五センチほど離れたところにも羽化した蝉がいる。また十センチほどの場所でも羽化している。よく見ればアベリアの植え込みで何十匹もの蝉が同時に羽化しているのだ。アベリアの枝に登るのももどかしいのか、歩道の縁石でも羽化しようとしている。クマゼミだった。もう、つぶさに眺める気も失せるほど、そのあたりでうじゃうじゃ出ているのである。生命の神秘というようなロマンチックな気分は霧散し、大量発生の不気味さに圧倒されてしまった。早朝からクマゼミの大音量で眠りを妨げられるのも無理はないと思った。
クマゼミは暑さや土壌の乾燥に適応できるので、年々生息地を広げているという。

・烏瓜を咲かせるちから 文字を書くわたしの指に夜のちからを  十谷あとり

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