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入江の午後

  油壺湾は、岩場が多い。
マリンパーク付近の林の中から、小さな入り江へと続く小径がいくつかある。どれもが急な坂だった。坂を下りる時、木々の合間からきらきらと輝く海原が見える。
夏でも海水浴客の少ない浜は、海の家も申し訳程度にあるだけだ。水の透明度が高く、釣り人や磯遊びをする人の姿が目立つ。
美久は、9月に入って遅い夏休みをとった浩二と共に、子ども達を連れて油壺を訪れた。
日中の暑さは夏のようだったが、三浦の海は澄みきって、海の碧さが増している。それはすでに訪れている秋の色であった。
 
子ども達は潮だまりで、歓声をあげていた。バケツと網を持って、小さな魚や蟹を捕まえようと躍起になっているのだ。危うげに岩から岩へと移動するのを見ていた美久は、思わず声をあげた。
「気をつけなさーい!あんまり遠くにいったらだめよー!」
 浩二は美久の袖をひいた。
「大丈夫だよ。死にやしないから。怪我も学習だよ」
美久は「そうね」と言う変わりに微笑みを返した。
ずいぶん長いこと、休日に遠出することはなかった。医大で蛋白質の研究をする浩二には、決まった勤務時間もなければ休日もないことがほとんどだった。家族団らんなどというものは無きに等しく、望むだけ空しかった。そんな生活になることは、結婚する前から分かりきっていたことだが、美久にはやはりつらいことだった。
 
 二人の子どもを育てる多忙な日々が訪れたことによって、その寂しさから少しは解放されたが、夫が子ども達と関わり合う時間が少ないことなどが、新たな不安となった。
 年に一度か二度、浩二とゆっくり出来るとき、美久はその時間を大切にしなければと心が焦る。あれこれと話したいことを頭の中で整理するが、そのほとんどは口をついて出ることはない。
 しかし、近頃はそれでもいいと思うようになった。会議をするわけではないのだから、その時の流れに任せて、とにかく安らいだ時間がもてれば良かった。
 
 子ども達を遠目で見守りながら、浩二はビールを飲んでいた。横顔に、多忙な日々がつくった疲労の陰が残っている。美久が差し出した枝豆を摘みながら、浩二は言った。
「はっきりとした日にちはまだ決まっていないんだけど、俺、三ヶ月後くらいにMIT(マサチューセッツ工科大)のほうに行かなくちゃなんないんだ。半年は戻ってこれないかも知れない」
 美久は耳を疑った。
「MITって、アメリカの?」
浩二はビールをまた一口含みながら頷いた。
これまで研究所に詰めることはあっても、海外での研究は無かった。いずれはそんなこともあるかも知れないとは思っていても、いざ現実となると動揺を隠せない。
「長くなるなら、一緒につれてって」
 
 浩二は子どもから視線を美久に移した。疲れが残っている時の浩二の顔は、悲しげで優しい。浩二は努めて柔らかい口調で美久をさとした。
 
「一緒に行ったら、美久はきっと参ってしまうよ。今より忙しくなるだろうから、きっと家に帰る時間もないと思うんだ。向こうは怖いしね、美久と子どもがいたら、俺も心配事が増えて、ちょっときついんだ」
 浩二は美久に話す前に、すでに一人で行くことを決めていたのだ。それは美久を失望させた。異国の地で知人もなく、小さな子どもを抱えて暮らすことがどういうことなのか、想像するのは容易かった。浩二によけいな心労がかかるのは確かだろう。
 けれども、顔を合わせるのがほんのわずかな時間だったとしても、まるっきり帰って来ないわけではないということが、わずかな救いだったのだ。それすらも無くなってしまうということが、美久には耐え難く思えた。いくら浩二に心労がかかるとしても、ついていきたかった。
 
 その時不意に、五歳になる長男の姿が岩場から消え、しぶきが音もなく上がった。
 美久の心臓が凍りついた。夢中で立ち上がり駆け出したが、すぐに彼は岩によじ登ってきた。ずぶぬれになって笑っている。
 美久は足を止め、深々と息を吐いた。美久のなかで、何かがぷつりと途切れたような気がした。すると、急に足元が不安定になり、そのままそこにへたり込んでしまった。
 いつのまにか背後に来ていた浩二が美久の肩をそっと抱いた。
「あいつ、強くなったなぁ。てっきり泣くもんだと思ってたよ。いつのまにか、でかくなってるしな。たまに見るとびっくりするよ」
浩二の言葉を聞いていた美久は、唐突に立ち上がり、彼の手から逃れ振り返った。
「あの子たちが、どんなふうに育って、私がどんなふうに苦労したか、浩二は知らないでしょう。いままでだってそうだったし、これからだってきっとそう。あの子たちには父親なんかいないも同然よ。そのことを、なんとも思ってないんでしょう。私がどう思ってるかなんて、考えたこともないんでしょう。一人で行くのが気楽なら、はっきりそう言ったらいいじゃない」
 美久はそう言いながら、激しく後悔していた。こんなことを言うつもりはなかったと、心で悲鳴をあげていた。しかしすでに遅く、いったん口から出た言葉は、かき集めてもう一度自分の中にしまうことなど出来なかった。
浩二は感情を露わにすることがない男だった。しかし、その瞳は確かに傷つき、失望と静かな怒りを宿していた。
「俺が何も考えていないと、本当に思ってるのか。父親がいないだと?ひとつ言っておくよ。俺が必死になって生きてることが、あいつらにとって一番重要なんだ。言ってる意味が分かるか?一人が気楽なのは確かだよ。でもな、その気楽さより君との結婚を選んだのがどういうことなのか、君こそ考えたことがあったのか?」
 顔の疲労の陰が、濃くなった。彼は美久のことをひとしきり見つめていたが、ため息と共に背を向けて去っていった。そして、もとの岩場に腰をおろすと、ビールの缶を手に取った。
 
 美久の目から涙があふれ、頬を伝ってぽたりぽたりと落ちていった。
優しくしたいと思っているのに、なぜこんな風に傷つけあってしまうのだろう。ひどいことを言ったと解っているのに、なぜすぐに謝ることができないのだろう。
 浩二を傷つけるということは、同時に自分も傷つくということだった。きっと浩二もそうであるに違いない。
 美久は涙を拭うと、浩二の元へ歩いていった。捨て犬のように、ぽつんと座っている浩二が愛おしかった。そして、美久自身も迷子になった子どものように心許なかった。
 美久は浩二の隣に座ると、素直に謝った。浩二の手が伸びて、そっと美久の髪をなでた。
 
 
「そんなに長いこと会えないなんて、心細いの。ついていきたかったの、私」
浩二は何も言わなかった。
 美久は、もう子どものように駄々をこねるのはやめようと思った。何を言ったところで、結局自分はついていくことをあきらめるだろう。いつでも理性で物事を考えようとする浩二の意見は、いままでほとんど間違ったことはない。感情でものをいう自分が、太刀打ちできるわけがなかった。
 何時の日か、こんなことで心を悩ませることも無くなるだろう。過ぎてしまえば、なんと言うこともないことになるのだろう。長い人生を思えば、半年や一年は短いものだ。
 美久は必死で自分に言い聞かせていた。
 
 子ども達が、やっとなにかを捕まえることが出来たようだ。バケツを高々と持ち上げて、きいきい叫んでいる。
「おう、やったか!」
 浩二は素早く立ち上がり、美久の手を引っ張って、走り出した。
 美久は岩場の凹凸に足を取られながら、一生懸命夫について走った。
 浩二の白いシャツが、秋の日差しに輝いていた。

                  (了)

※この作品はフィクションです。(初出 1998年)
 
 
 

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