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明治女に学ぶ美しい人生のたしなみ*第八回 自分のことを、手入れしながら繕いながら生きていく

沢村貞子
明治四一(一九〇八)年、浅草生まれ。兄は四代目沢村国太郎、弟は加藤大介、長門裕之・津川雅彦は甥にあたる。小津安二郎監督作品などで名脇役として活躍、生涯で百本以上の映画に出演する一方、数多くのテレビドラマにも出演し、お茶の間の顔となる。六十歳からは執筆も手掛け、秀逸なエッセイを数多く残す。平成元年に女優引退し執筆に専念。平成八(一九九六)年、八七歳で生涯を閉じた。

生き方は暮らし方

 

 令和の時代ともなれば、いよいよ「昭和も遠くなりにけり」(?!)でしょうか。今回ご紹介するのは昭和生まれには懐かしい、女優の沢村貞子さんです。数多くの映画やドラマに出演するも、あくまで脇役に徹した沢村さん。厳しい姑役もあったせいか、年若い頃の私は「おっかない人」という感じを抱いていました。それが覆されたのは、沢村さんのエッセイを読んでからです。華々しい世界に身を置く沢村さんが綴ったのは、何気ない日々の生活に関することばかり。掃除のちょっとした工夫、着物のおしゃれに関して、そして何といっても料理のこと。人情味のある言葉の端々には女優である前に一人の女性として毎日の生活こそ大切にしたいという沢村さんの想いが満ちあふれていました。

 今日は何を食べ、何を着て、どこへ行き、誰と会い、どのように過ごすのか。そのひとつひとつを、どうすれば気持ちよく行えるか。夜、床に就いた時、「よかった」と思えるかどうか…。

「今日をどう過ごすのか」は「今日をどう生きるのか」ということにほかなりません。沢村さんは、人生とはささやかな日々の積み重ねなのだということを伝えたかったのでしょう。

 もっとも、この「何気ない日々の生活」をこれほどまでにいとおしみ慈しんだのは、沢村さんの生涯が激動ともいえる日々に満ちていたからかもしれません。

貧しい人々を幸せに

  教師になろうと、父親の反対を押し切ってまで大学へ進んだものの、教育界のあり方に違和感を抱き、役者の道を選んだのは二十歳の頃です。「懸命に働く貧しい人々を幸福にするために」という主旨に感動し新劇運動に参加、ついには大学を中退し、「活動のため」と勧められるまま結婚までします。治安維持法違反容疑で留置されたのは、それからほどなくのことでした。仲間だと信じていた人々が転向していくのを目の当たりにし、活動そのものにも疑問を抱き始めた沢村さんは、結果的に転向します。二十五歳で懲役三年執行猶予五年の判決を受けて保釈。その頃すでに活動写真のスターだった兄・沢村国太郎の口利きで芸能活動を始めました。

 やがて日本は戦争へと突入し、沢村さんも大阪で大空襲に遭い生死の境をさまよいます。終戦直後に大橋恭彦と出逢い、駆け落ち同然でともに暮らし始め、ようやく入籍することができたのは還暦直前でした。その結婚生活にしても、まるで嵐の大海を小舟で往くかのごとくです。沢村さんが愛した最初で最後の男性である大橋恭彦氏は、いわば典型的な明治男。そのうえ経済面は、ほとんど沢村さんにかかっていました。沢村さんは女優の仕事をしながら、妻として甲斐甲斐しく夫に尽くしたのです。

 沢村さんが願い続けた「ささやかな幸せに満ちた何気ない日々」が本当に手に入ったのは、最晩年、海の見える葉山のマンションで、夫婦二人で暮らすようになってからのことでした。

幸せとは一つの小さい点

  沢村さんは、ことあるごとに「私は明治生まれの下町女だからね」といったそうです。この言葉には、「良いか悪いかは別として、私はこのように生まれてきたことを全身全霊で受け入れて、そういう自分を生きているのだし、こういう自分で生きていくほかないのだ」という想いが凝縮されているように感じられます。翻って言えば、私たちも「今この時代を生きている自分」をありのまま受け入れ、認めていくことが必要なのでしょう。明治生まれには明治生まれの、昭和生まれには昭和生まれの価値観があり、今の時代にしかできない生き方があるのです。

 一方で、時代が変わろうと決して変わることのないものがあります。それを、沢村さんの紬の着物のように粋で爽やかな名言でお伝えしましょう。

「私ね、幸せというのは(中略)、魔法のランプではないと思うの。それは、一つの小さい点だと思うんですよ」

「自分のことをよく知って、だましたりすかしたりしなきゃあね。手入れをしながら、繕いながらでも、結構もってますよ」

「なんといったって、人生は、ほどほどに楽しまなきゃあ。何を生きがいに――などとよく言いますけれど、生きがいというのは、そんなに大きなものでなくてもいいと思う。(中略)一つの生きがいというのは、さっき申し上げたように、小さな点と小さな点を、せっせこせっせこ集めること」(『わたしのおせっかい談義』沢村貞子 光文社文庫)

 沢村さんは、相手に尽くす前に、まず自分を大事にしていたことがわかります。そして、自分にも相手にも何事にも完璧を求めず、「ほどほど」をわきまえていた。当たり前のことといわれればそれまでですが、その当たり前をしっかり踏まえることができた人、それが沢村貞子さんだったのです。

(初出 月刊『清流』2019年8月号)
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