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12 文化財調査に乗り出すフェノロサと岡倉天心

 明治三十三(1900)年、新渡戸稲造が米国で出版した『武士道』は、日本人の美意識を広く知らしめることに大きく寄与しました。
 さらに明治三十九(1906)年、岡倉覚三が『茶の本』をニューヨークで出版しています。
 両者の共通点は外国人によって、日本の美質に気づかされたところです。新渡戸稲造は妻によって、そして、岡倉覚三は米国人東洋美術史家アーネスト・フェノロサの講義を東大で受講したのがきっかけでした。

 フェノロサは明治初期のお雇い外国人です。先に来日していたエドワード・モースの紹介で明治十一年に来日し、帝国大学(現・東京大学)で哲学や政治学の講座を受け持ちました。
 フェノロサの講義を受けたのは、岡倉覚三の他に嘉納治五郎、井上哲次郎、高田早苗、坪内逍遥、清沢満之などがいます。
 日本美術に強い関心を抱いたフェノロサは、狩野派をはじめとする日本の美術品に心酔する一方、うち捨てられたも同然の仏教寺院を訪ね歩くようになりました。
 岡倉覚三は英語が堪能だったため、フェノロサの助手を務めます。フェノロサと共に日本美術に触れ、各地の寺院を訪ね歩くうち、覚三はフェノロサを通して日本を見るようになったのでしょう。
 すると、それまで当たり前だったもの、いえ、当時はむしろ「西洋に比すると著しく劣っている」とさえ思われていた日本の伝統が、実は極めて尊いものであることを理解するようになったのです。

当たり前は、実は当たり前ではなかった。

 当たり前と思われるものの中にこそ宝が存在していることを悟ったのです。
 その最たるものが法隆寺夢殿の開扉です。
 明治十六年から十七年にかけて古社寺を保護する目的のもとで行われた「古社寺調査」の一環でした。
 この活動が現在の文化財保護法へと繋がっていくのです。
 聖徳太子ゆかりの法隆寺が大きな転機となったことは、あたかも「和の精神」が失われていないという証明のようでもあります。

斑鳩 法隆寺 夢殿


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