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薄羽蜻蛉の夏

 夜中にふと目を覚まし、カーテンの隙間から細く青白い月明かりが漏れているのを見た時、僕は失った礼奈のことを想い、やるせなさに初めて声を震わせて泣いた。

 夏のことだった。
 どこから舞い込んできたのか、都会には珍しい薄羽蜻蛉が天井にとまっていた。夕暮れの部屋の中、僕は礼奈の細い肩を抱きながら、ベッドの真上でぶらさがる儚い生き物を眺めた。
 若草色の胴体に、透明な羽を持つ蜻蛉。それは、礼奈そのものだったように思われてならない。

 大学三年の春の終わりに、僕はオートバイの事故で全治一ヶ月の入院生活を余儀なくされた。
 入院生活は退屈で、気が滅入ると松葉杖をつきながら病院の庭を散歩した。そこは、入院患者のための庭だった。緑色の芝と木立にかこまれた、静かなところだった。散歩をしている人は、誰もがその病院のガウンを羽織っていて、一種独特な雰囲気が漂っていた。
僕は、そこで礼奈と出会った。

 ひっそりとベンチに座り、栗色の髪を風になびかせながら、彼女はどこか遠くを眺めていた。ガウンの下からは、細く白い臑がすんなりと伸びていた。
 僕は、運命などという言葉は信じたことがなかった。しかし彼女の姿を見たとき、出逢うことは宿命だったように感じられた。僕は彼女から目を離すことが出来なかった。
 白い衣をまとった妖精のような彼女は、僕の心を一瞬にして奪い去っていったのだった。
 それからというもの、僕は三度の食事の時以外は、たいてい庭で過ごすようになった。ぼんやりとほっつき歩いていると、必ず礼奈と会うことができた。
 礼奈はいつでも突然現れた。花壇のあたりや噴水の向こう、雑木林を抜ける散歩道など、出逢う場所はいつでも違っていた。
 
 彼女は桜色の小さな唇を軽く結んで、遠い瞳をしていた。その唇に、何度触れてみたいと思ったか知れない。
 何度も何度も会ううちに、礼奈は僕に向かって恥ずかしそうに微笑んでくれるようになった。それは、可憐な一重の花がほころんだような笑顔だった。
 僕はもはや入院生活を苦痛だとは思わなくなっていた。それどころか、いつまでもこうして閉ざされた世界で、礼奈と会うために歩いたり、この建物のどこかで彼女も眠っていることを想いながら安らかに眠りについたりしていたかった。
 退院の日が決まったとき、僕は勇気を出して、礼奈に話しかけることにした。退院してしまえば会えなくなる、そんなことは考えたくもなかった。
 ある晴れた日の午後、僕は向こうからやってきた礼奈に近寄ると、名前や住所を書いた紙切れを渡した。間近に立っていると、彼女の清潔な香りが漂ってきて、僕は目眩を感じた。そのまま彼女を捕らえ、僕の部屋へと連れて帰りたかった。
「あなたが退院したら、ぜひそこへ連絡して下さい。どうかお願いします」
 僕はやっとの思いでそれだけ言うと、それ以上現実離れした想いに襲われぬよう、逃げるようにして去っていった。
 その日、僕は病院を後にした。


 部屋へ帰ってくると、突然現実の生活が押し寄せてきた。 文学部の学生である僕は、授業に出たりレポートを書いたり、アルバイトに出かけて行かなければならなかった。 僕の部屋は、早稲田の住宅街の一角にある古ぼけたマンションで、自殺騒ぎのあった部屋だという噂のためか、すこぶる安かった。しかし、親からの仕送りをまるっきり受け取ることが出来ない環境にあった僕は、授業の合間に家庭教師を勤め、生活費を稼いでいたのだった。

 入院する前までは気づくこともなかったが、現実の世界は目を背けたくなるような俗っぽさに溢れていた。僕は入院生活を想いだし、厭世的になった。友人たちとのつきあいも、ほとんどしなくなっていった。
 生活の中で不意に空白が訪れたとき、僕は礼奈の姿をありありと想い出していた。いや、空白が出来たときだけではなかった。彼女はいつでも僕の胸の中に住んでいて、あらゆるところから微笑んで僕を見つめていた。それは確かに僕の想像でしかない。しかし、彼女の姿は日に日に現実感を増していって、実際の彼女に会って居たときよりもずっと確かな存在感を持っているのだった。

  そんなある日のこと、僕の部屋のチャイムが鳴った。アルバイトが休みの日で、僕はレポートに取りかかっているところだった。
 ドアを開けたとき、僕は一瞬心臓が止まるのを感じた。そこに、礼奈が立っていたのだ。
 ひんやりと薄暗い廊下に立つ彼女は、白いTシャツ姿だった。袖から伸びる腕も首筋も、今にも折れてしまいそうなほどにほっそりとしていた。
 僕は呆気にとられながらも、一方では彼女がここに来ることを至極当前のことのように感じていた。「やあ。待っていたんだ。よく来たね」 僕は彼女を向かい入れた。

  それから、彼女との短い不思議な生活が始まった。
 彼女がここにいることは、やはり当然なことなのだと僕は思った。礼奈と話しをしたことなど無かったにもかかわらず、僕の口は軽やかに動き、あれこれと話すことができた。
 僕は決して饒舌でもおしゃべりでも無かった。しかし、礼奈を前にすると、不思議と言葉が溢れてくるのだった。
 礼奈はあまり喋らなかった。いつでも僕の話を聞いていた。桜色の唇を少しだけ開いて微笑みながら、彼女は飽きることなく僕のおしゃべりを聞いていた。  だが、彼女のことについて尋ねると、彼女は曖昧に微笑みながら、そのうち話すから、と言うだけだった。
    礼奈が部屋にやってきて以来、僕は生活が楽しくなった。出来れば始終礼奈と一緒にいたかった。だが、大学に通わなければならなかったし、アルバイトにも行かなければならなかった。
 家に帰りさえすれば、彼女が居る、そんなことを思うと、それらのことは苦痛でもなかった。僕は彼女のことを想いながら講義を聞き、アルバイトで中学生を教え、家に帰るなり彼女のしなやかな躯を抱いた。
 
 大学が夏休みにはいると、僕の用事はアルバイトだけとなった。それでも、夏は学生にとって稼ぎ時だ。僕は夏のあいだ、喫茶店でのアルバイトを掛け持つことにした。
 家に帰るとき、礼奈には必ずと言っていいほどおみやげを買っていった。礼奈は果物や、花や、甘いお菓子が好きだった。そうしたものを手にしたとき、彼女は子供のようにくしゃくしゃの顔で笑った。僕はその顔見たさに、何を買って帰ろうかと思うのだった。

  盆休み、アルバイトはどちらも休みで、僕は一週間、礼奈と過ごせることになった。
 どこかへ出かけようか、と言っても、礼奈は首を振るばかりだった。暑さに弱いのか、彼女は少し元気がなかった。家の中を掃除したり、ちょっとしたご飯をつくったりするのを、彼女はとても楽しげにやっていた。しかし、用事が終わると、僕のそばにやってきて力無く横たわり、いつしかうとうとと眠り込んだりしていた。
 僕は、礼奈とそうして一緒にいるだけで、十分だった。礼奈の寝顔を時折見やりながら、済ませなればならないレポートを書いていた。


  盆休みも終わりに近づいたある夕暮れ、僕は礼奈とつい眠っていた。目が覚めたとき、礼奈は天井を見つめていた。
「どうしたの?」と、僕が訪ねると、「あそこにすごくきれいな虫が居るの」と答えた。彼女の視線を追って行くと、そこには薄羽蜻蛉が居た。
「あれは、何て言う虫なの?」
「さあ、たぶん薄羽蜻蛉だと思うけど。珍しいな、こんな町中で見るなんて。あれは空気がきれいな山なんかにしか居ないんだよ」
 僕は、薄羽蜻蛉の一生を話した。土の中で過ごす膨大な時間と、成虫してからの短い命を。それから、僕の故郷の清流で見つけることが出来ると言うことなどを。
 礼奈は天井から目を離さずに、じっと話しを聞いていた。そして、ふと涙を流した。
 それは礼奈の目の端から溢れ、流れゆき、小さな耳のくぼみにわだかまりを作った。僕は切ない気持ちになって、彼女を抱きしめた。どこもかも折れそうなほど細い礼奈の躯は、存在そのものが悲しげだった。僕はこれほど弱々しく、愛おしい生き物を見たことがなかった。
 どんなに強く抱きしめていても、礼奈は消えてしまいそうな気がして、僕は夢中で彼女を愛した。 

 薄羽蜻蛉は、しばらくの間部屋のどこかで見つける事が出来た。礼奈はそのたびに、「ちゃんと、まだいたのね」と話しかけていた。しかし、いつしかその姿は見えなくなり、彼女は落胆していた。
 僕は慰めの言葉をどうかけたらいいのか判らないまま、ただひとしきり彼女を抱きしめた。

 一週間の休みは過ぎ、アルバイトが始まった。夏休みぎりぎりでレポートを仕上げ、やがて僕は学生生活へと戻っていった。


  厳しい残暑が過ぎ、夕暮れ時に秋の気配が漂い始めた頃、礼奈は突然姿を消した。
 外出することを、極力嫌っていた彼女が、部屋に居ないのを見たとき、僕は言いようのない不安に襲われた。僕はそのまま外へ駆け出して、彼女の姿を求めて走り回った。
 終電が走りすぎていった後、僕は諦めて部屋に戻っていった。もしかしたら、いるかも知れない、居てくれと、祈るような気持ちでドアを開けた。しかしそこには、街灯と月明かりに照らされた群青色の空間があるだけだった。

 僕は学校とアルバイトの合間に時間を見つけては、礼奈の姿を求めて歩き回った。靴はすり切れて、靴下には穴が開いた。水すらのどを通らないこともあった。街を歩いていて、花や色とりどりの甘いお菓子を目にすると、無意識に足が向いた。そして、買って帰っても空しいだけだということを想いだし、目を背けるのだった。

 そうして、二週間ばかりが過ぎた頃、ポストに一通の手紙が落とされた。 差出人は、礼奈だった。
 僕は急いで部屋に戻り封をちぎった。
 数枚に及ぶの礼奈の手紙を、僕は幾度も幾度も読み返した。その内容を、僕は受け入れることが出来なかった。へたへたと座り込み、礼奈の姿を想い出しながら呆然と時計の音を聞いていた。

  礼奈の手紙には、こう書いてあった。

  私は癌に冒されていて、再び入院して闘病生活をしなければなりません。お医者様の話では、転移があまりにも広範囲なので、どうなるか難しいところだと言うことです。闘病中の私の姿を、あなたに見られることが苦痛なのです。ですから、どうか私を捜したりはしないで下さい。私はかつて、親元を離れ、あなたの部屋で暮らしていたことがありました。その時病気のことを知り、生きる気力を失って、死のうとしたことがありました。
 でも、あなたと出会って、生きていることの喜びを知りました。私は生きてゆきたいのです。
 もしも私が再び元気を取り戻し、病院から出ることが出来たとしたら、あなたのところへ行きます。それまで待っていて下さい。
 でも、それが出来そうになかったら・・・ その時私はそのことをあなたに告げる勇気があるでしょうか。
 いまはとても出来そうな気がしません。
 あなたが大学を卒業するまでに、何の連絡もなかったとしたら、どうぞ、私のことは忘れて下さい。
 どうか、いつまでもお元気で居て下さい。 あなたのことを、今も心から愛しています。    
                            玲奈


  僕は、彼女がいつの日かこの部屋に帰ってくることを祈りながら日々を過ごしていった。きっと帰ってくる、そう信じることだけが僕の救いだった。 しかし、時は無情に流れていった。彼女が帰らないまま、僕は卒業を迎え、そのまま院生となった。
 僕は失意のさなかに、彼女の居ない夏を迎えた。
  彼女が今も生きているのかどうか、僕には判らない。
 しかし、この部屋には確かな喪失感が漂っているのだった。  


                         (了)

※この作品はフィクションです。(初出 1998年)




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石川真理子
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