10 梅すだれ 肥後の国
予定通り朝までに山を下った猿彦は、次の山も越えた。その山を越えてもまた山があった。
(この山の向こうに国があると?)
疑いが頭をかすめた。
二つ目の山はやけに高かった。木の種類は猿彦のいた西の森とあまり変わらなかったが、感覚として全く違うように感じた。強いて言うなら、この山の木は話しかけてこない。西の森の木々は、動物たちのように猿彦がいれば様子を窺うような気配があったし、登れば「元気かい?調子はどうだ?」と声をかけられているように思えた。
でもこの山の木たちは猿彦がいることにさえ気づいていないようだった。とても静かなのだ。その違和感に、知らない場所に来たのだと思わされた。
お腹の空いている猿彦は登るのをやめた。実をつけた木が多かったこともあって、三日間山を探索してお腹を満たした。元々山が好きな猿彦であったから、このままこの山に住もうかとも思った。この静かな山をもっと知りたいと。しかしまだ十六歳。石丸の言った「別の国」への好奇心の方が勝った。
(石ちゃんがあると言った国を見てみたい!)
心も体も元気を取り直した猿彦が頂上で見たものは、信じられない風景だった。山の向こうには平野が広がっていた。低い山はいくつかあったが、もう高い山などなかった。見たこともない広々とした平坦な土地が広がっていたのだ。
(あれが別の国?)
その平野に沿うように、大きな湖が横たわっていた。天野原の湖など比にならないほどの巨大な湖だった。
猿彦はごくりと唾を飲み込んだ。新しい世界を目の前に恐ろしさを感じたのだ。しかしそれ以上に、飛びこんで行きたい衝動に駆られた。
意気盛んに山を下り、次の低い山も一気に越えた。そうしたところ、道に出た。獣道ではない。たくさんの人間が通ってできた道だった。
(この道の先に、国がある!)
自然と小走りになってその道を進んだ。山の中に続くその道は、六里ほどで下り一辺倒になった。
下り続ける猿彦は、(落ちた先は天か、地獄か?)と不安混じりの期待を膨らませていったのだった。
やがて山を下り切って森も抜けると、農家や畑がぽつんぽつんと点在していた。西の方角に山は見えない。山に囲まれていないなんて、不安な気持ちになった。それで、畑で作業をしていた人に尋ねてみた。
「この道の先には、何があると?」
「西へ行けば海があると。北へ行けばお城があると。」
「海?お城?それはなんと?」
「おまえ海も知らんとか?見ればわかると。」
猿彦はその海を見てやろうと西へ進んだ。八里ほど進むと吹く風に塩の味を感じたし、空気はべたついていた。体験したことのない塩っぽい湿気に、なにか恐ろしいものがあるのだと予期しながら水辺に辿り着いた。そこは向こう岸もなく形なんてわからないほどに大きな湖だった。
近くに網を繕っている男性がいたので、尋ねてみた。
「海はどこにあると?この湖の向こうか?」
「何を言っとっと?これが海と。」
子どもでも分かることを理解できない猿彦を、漁師はケラケラと笑った。この三十路の漁師、名を浜次郎と言う。明るい気性の浜次郎は、海も知らない見知らぬ猿彦を疎むどころか面白がった。
「海も知らんと、どこから来たと?」
「日向と。」
「山を越えて来たと?島原へ行くとか?あそこはやめとけ。」
この頃、多くの者達がこの海の向こうの島原へ移住しに来た。と言うのも、二年前に島原の住民はいなくなってしまった。殺されたのだ。世に言う島原の乱で、農民たちが藩主に反乱を起こしたが、幕府によって鎮圧されて三万人もの農民たちが殺された残虐な事件だった。人のいなくなった島原の土地は荒れてしまい、島原藩は復興の為に多くの移住者を受け入れていた。
浜次郎は猿彦も島原へ住みに来たのだと思った。しかし猿彦は島原のことも知らなかった。この何も知らない若者猿彦を、なんと浜次郎は家へ連れて帰って住まわせたのだった。
山の人たちと違い、海の人たちは新しいものを受け入れやすい。
「海からなんでも流れて来る。人もあると。ただし死んどっと。」
笑って話すが、人が流れつけば介抱し世話をし、亡くなっていれば埋葬もしていた。この海の村で、猿彦は浮き草のように暮らすことになるのだった。
つづく
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