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お菊は立ち上がると廊下へ出た。この廊下は中庭をぐるりと囲んだ長い廊下だ。左手に庭を見ながら足早に歩き、角を左に曲がるとすぐに右手の部屋の前で止まった。 「お義母さま、よろしいですか」
庄衛門はいなくなったが庄衛門の叫んだ「許せるものか!」は部屋に残っていた。この言葉は「許しなさい」と言ったお菊が心の中で叫んだ言葉でもあった。
小さな一人用の家に着いた爺やは男を囲炉裏の前で下ろした。薪をくべて火を起こすと鍋に水を入れて炎の上に掲げた。 「女子でなくて悪いが」
(松之助は踏み絵を踏むとか?)
六一郎がいなくなってしまい、六郎太の落胆は尋常ではなかった。
六郎太の息子、六一郎は二年前に天草へ来た。移住するにあたり切支丹の娘、クネと一緒になり、昨年息子が生まれたばかりだ。
村は五、六家族を一組にして七つの組に分けられていて、各組には作之助が選んだ組頭が一人ずついる。土着の天草の民や九州地方からの移住者が多い四つの組をまとめるのは大頭の太郎兵衛で、それ以外の三つの組をまとめるのがこれまた大頭の馬四郎になっている。
朝は読経の後、字を習う猿彦の横で松之助は阿弥陀経を書き写した。字を知っているとは言え、お経の漢字は見たこともない難しいものばかり。一画一画、間違わぬように目を凝らして書いていった。
深くイエス・キリストに心酔する松之助であったが、懸念もあった。あの集まりに一緒に行った五人のうち二人は同じ村の者だったのだ。それに加えて村は違うが埋め立て作業で見たことのある者が一人いた。
「みなさんの働きで荒れた地が蘇っていきます。しかも皆さんは新しい地を作って神に近づいていく。主は喜んでいらっしゃいますよ。祝福は必ずもたらされます。」
一行は道らしきものを辿って上へ上へと山を登ったが、突然道を外れて左へと入った。しばらく歩くとまた道があった。その道は平らなまま続いていて、歩いていたら左が谷になった。足一つ分の幅しかない山の端を、滑り落ちないように慎重に進んだ。
十字架を手に入れた松之助は、お藤の髪の毛を探さなくなった。暇を見つけては山の中をうろつくが、目的は大きく変わっていた。