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「超越的な真理」を把握することでの限界について #思索のメモ

“比丘たちよ、わたしは「一切」について話そうと思う。よく聞きなさい。「一切」とは、比丘たちよ、いったい何であろうか。それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。

誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないだろう。さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。何故か。何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。
 (サンユッタ・ニカーヤ 33.1.3)”

引用元:仏教に関する来訪者の声 釈迦はアートマンを否定したか? 佐倉哲エッセイ集

“ 私がどうしても書きとどめておかずにはいられないもう一点は、宗教が、いかなる証拠ももたず、もつことができるはずもない細かな出来事について、なぜああも傲慢な口ぶりで断言できるのか、ということだ。……”
  リチャード・ドーキンス(進化生物学者)

引用元:リチャード・ドーキンス 著『神は妄想である 宗教との決別』垂水雄二 訳、早川書房、p56


前回のnoteと同様に#思索の備忘・メモ

今回のBGMはビーバー(Heinrich Biber)のパッサカリア



「超越的な真理」を把握することでの限界について

宗教は「超越的な真理」を説いていると主張する人がたまにいます。
とくに自分の信じる宗教やスピは真理であると主張する人もいます。
これは間違ったものではないでしょうか?

こんなことを言う人がいるから宗教やスピ・精神世界は、科学のような謙虚さがなくて傲慢でアホだと言われるわけです。

たとえ超越的な存在があって、超越的な真理とやらがあったとしても、この物理的な世界で物理的な身体でもって活動する人間には、その超越的なものをそのまま把握することはできないと思うからです。

これについて今後の思索のための備忘録


・超越的な真理なるものがあるとしても、そもそもそれをそのまま把握して説明することは不可能なのではないか?
なぜなら、人間の脳みそには限界があるから。

・人間の脳・神経生理は、いわばこの物質的・物理的世界の要素のひとつである。
この物質的な世界に適応して進化してきた産物であって、認識力もこの世界(此岸)に限定される。
それなのに、物理的なものを超越したものを認識して理解する機能が備わるのか?


・宗教やスピ・精神世界では、聖典にあるから、偉大な聖者や預言者が言ったから、瞑想や脱魂など超越的な意識状態で知見したから、論理的に正しいからなどの理由で、「これこそが絶対的真理、超越的な真理である」という主張が見られるが、これは非常に傲慢顛倒なものではないのか?

・科学では、たとえば「理論的に、このような物理現象・物質の存在が予言(預言ではない)される」とする場合でも、それがすぐさま絶対的な真理として信仰されたりはしない。
 現代物理などではますます困難なものになりつつあるが、常に客観的な検証が指向される。

このような科学の態度と比べて、検証不可能な領域についてなのに「これこそが真理である!」「私は目覚めた!」として、現実世界の科学、教育、政治、経済、司法、医療、公衆衛生、、、に口を出す宗教・スピ・精神世界の態度は非常に傲慢で顛倒したものではないのか?


・たとえ脱魂、臨死体験、瞑想、サイケデリクスなどによる超越的な意識状態で超越的なものに触れたとしても、果たして「真理」は把握できるのか?

この世(此岸)に関することであれ、人間の認識能力は完全ではなく間違いをおかす。

関連note


発展した科学をもってしても、まだこの物質的な世の中のことについてすら分からないことだらけである。
それなのに、ちょこっと超越的な世界に触れたからと言って、超越的な絶対的な「真理」が正しく把握できるのか?


・人間の脳には臨界期(critical period、sensitive period、敏感期、感受性期)という限界があるとされる。
これについては今日でも様々な研究や見解があるが、おおむね正しいとされる。

 たとえば視覚機能について臨界期が知られている。

たとえ魂なるものがあって、完全無欠な魂が出生によって物質的な肉体に宿ったとしても、生後からしばらくの期間目が覆われるなどして視覚刺激が遮られた場合には、治療が不可能な視覚障害が生じ得る。
(なので先天白内障などがみられた場合には、臨界期前の対応が必要とされます。
ちなみに臨界期を過ぎた後の治療の可能性についても研究はあるようです)

この場合には、脳の視覚野に正常な反応が見られなくなるなどがある。


 この臨界期による限界はないのか?
生後から定期的に超越的な認知機能が刺激され、機能が促されるということは現に生じているだろうか?
たとえ脳みそに超越的な世界を認識する能力の可能性があったとしても、この臨界期の限界によって、不可能になってしまうのではないのか?
超越的なものの認識力の発達に臨界期があるのなら。


・人間の脳はこの物質的な世界に適応した物質的なものであること、この物理的世界を認識することにおいてすらも完全ではないこと、そして認識力の発達に臨界期があるということ、これらから物質的な世界にある人間が、物質を超越したものをそのまま把握することはできないと十分に主張できるのではないだろうか。


限界のある脳ミソによって、超越的なものに触れた場合

もし仮に超越的なもの(彼岸)があるとして、物理的な世界に束縛されている人間がそれに触れたりした場合に、起こりえることについて。


・脳ミソ自体の限界のため、超越的なものをそのまま認識できない。
そのためこの物理的世界で経験し培い、蓄積されたイメージに変換されることになる。

・超越的すぎて脳ミソのキャパを完全に凌駕しているものの場合には、イメージに変換されることもなく忘却される。


・仮に、もし完全に物理的なくびき、束縛を乗り越えて、純粋な魂の状態で超越的なものを認識したような場合であっても、この物質的な肉体に戻ってきた場合には、やはり、イメージに変換されるか、もしくは完全に忘却される。
「なにか凄い体験をして、霊的なことを悟った印象があるけど、それがなんなのか全く思い出せない」みたいなことになるかもしれない。

脳ミソの限界のために、物質的な肉体に戻ってきた状態では、その超越的世界での体験がそのまま想起されるということはないのではないか。


物理的な世界にあって、宗教的超越的真理なるものを主張できるのか?

・超越的真理なるものがあろうとも、人間の脳ミソの限界のために、そのまま把握できない。
たとえ、完全に物質的なくびきを解放された状態で、超越的な世界に赴いたとしても、物質的な肉体に戻ってきたのなら、やはり脳ミソの限界の束縛のために、その体験をそのまま想起できない。

そのためこの物理的な世界で、超越的なものについて語られるものは、この物理的世界で経験し培い蓄積されたイメージに変換されたものである。

・では、この物理的世界で経験し培い蓄積されたイメージに変換されたものが、超越的なもの、超越的な真理をありのままに表現するというのは、適切な主張なのだろうか?
 それはもはや、この世的なものなのではないのか?


・仮に超越的なものがあるとして、それに触れたり垣間見たりして、情報がもたらされた場合には、以下のことが言えるかもしれない。

つまり、どれもが間違っている。
どれもが、限界のある範囲内で、超越的な情報を反映している。
ある情報は他のものと比べて適切なものである・ない。

たとえ、ある情報が他の情報と比べて優れたものであったとしても、やはりそれは所詮はこの世的なものに変換されたものであり、超越的な真理をあますことなく示すということはないのではないか?