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霊性の実践(霊性の道)のあり方について① #思索のメモ

“ あなたがたはいったい神を誰に似せ
どのような偶像にしたてようというのか ”  

聖書・イザヤ書40:18


霊性の実践(霊性の道)はどうあるべきかに、ついての#思索の備忘・メモ
いつものように長文になったので2つに分けました。
つづき⇒『霊性の実践(霊性の道)のあり方について②

結論は、要は自分の置かれた状況、TPOを考えましょうということです。


BGMはバッハフーガト短調小フーガ


宗教にはどれもカルト性が

伝統であれ新興であれ、宗教にはどれもカルトの性質があると言えるでしょう。

「宗教は愛や平和を説く。心を豊かにする。尊重されるべきだ」なんてことを言う人もいます。

しかし日本人の大部分は宗教(精神世界、スピリチュアルを含めて)はなんとなくアブないもの、気持ちの悪いものと感じているのではないでしょうか。
この感覚は自然であり当然だと思います。


 なぜ宗教にはカルト性があるのでしょうか?
これは非常に簡単なことです、、、、

・そもそも宗教は非現実的なアホなことを説いている

・非現実的なアホなことを説く宗教を真に受けた信者が、その教えを実行しようとして現実社会でいろいろとやらかす

、、、、ということです。

宗教が非現実的なアホなことを説いているというのは、宗教の聖典を読んだり、宗教の歴史を見れば一目瞭然です。
「宗教は素晴らしい、尊重されるべきだ」と考えるような人は、ちゃんと聖書やコーラ○(○ル○ーン)を読め!って感じです。

今はネットでも全文読めるので聖書他いろんな宗教の聖典を読んでみて下さい。けっこう凄いことが書いてあります。

たとえば↓↓

参考図書としては「リチャード・ドーキンス」や「バート・D. アーマン」などによるものが面白いと思います。


・現実社会、社会性の否定

あと宗教を創始したり、説いたり、修行していた人たちの重要な部分を担ってきた人たち、そういったカテゴリーの上位の人たちというのは、しばしば実際的には、現実社会や社会性、経済的活動、生産活動、、、というのを否定してきた人たちだったりします。

たとえば有名な釈迦は王家に生まれながら、社会からドロップアウトして、乞食をやってました。
「釈迦が乞食だと!きさま!仏教を愚弄する気かッ!」という反発もあると思いますが、釈迦が乞食をやっていたというのは、『スッタニパータ』にもあるわけです。

“ ……
 そのとき師(ブッダ)は……田を耕すバラモン・バーラドヴァージャが仕事をしているところへ赴かれた。……
 そこで師は食物を配給しているところに近づいて、傍らに立たれた。田を耕すバラモン・バーラドヴァージャは、師が食を受けるために立っているのを見た。そこで師に告げていった、「道の人よ。わたしは耕して種を播く。耕して種を播いたあとで食う。あなたもまた耕せ、また種を播け。耕して種を播いたあとで食え」と。 ” p.23


“ 仏教の僧侶は働かない、無為徒食しているのではないか、ということは、インドでは後世になってもバラモン教徒から発せられた非難であった。……儒学者、日本の国学者も、仏教に対して同様の非難を向けていた。……” p.266 註

ブッダのことば スッタニパータ』 中村元 訳 岩波文庫 1984


 余談ですが、韓国は今ではキリスト教(特にプロテスタント系)が人気があるようですが、文化的には儒教の文化です。李氏朝鮮の頃の国教は儒教でした。
李氏朝鮮の前は高麗で国教は仏教でした。

儒教の国になったのは、朝鮮王朝建国の功臣である鄭道伝(チョン・ドジョン、三峰・サムボン)によるものが大きかったとされます。

鄭道伝は「仏教は現実的でない。生産的でない。中国の歴史には仏教にハマりすぎて国を傾けた例もある、、、、、」などと非難して、儒教を選択したとされます。

儒教の国になっても両班(支配階級)は、自分たちの権益、家門、権力闘争、民衆からの搾取に汲々としていたわけですが。
この権力闘争に日本が介入して、李氏朝鮮王朝は終わったという面もあります。


 鄭道伝は韓国ドラマ『六龍が飛ぶ』などでも登場します。
最後は王子(李芳遠イ・バンウォン、後の第3代国王、太宗)と対立して逆賊とされました。

韓国ドラマ『鄭道伝』での最期の場面↓↓
李芳遠に処刑されてしまう、、、

李芳遠「、、、おまえの功績は全て消し去って、逆賊として処刑してやる、、、」

鄭道伝「、、、バンウォンよ、民を侮るな。民のための政治をせよ、、、」

みたいな感じで斬られたあとに、かつて儒学を共に切磋琢磨して学んだ友人(圃隠・ポウン)が幻にあらわれて、「ポウンよ、私は最善を尽くしたんだ」と言って、ポウンは「そうだ。おまえはよくやった。最善をつくした」、、、
 といったような場面だったはずです↓↓

辞世の句:操存省察両加功、不負聖賢黄巻中、三十年来勤苦業、松亭一酔竟成空
(志を維持し 己を省み 書にある聖賢の教えに違うことなく 三十年もの間刻苦してきた  それらがすべて松亭での一酔で空しくなってしまった)


・超越的な介入なんてあるのか?

宗教の信者に「信仰によって超越的な存在は現実世界へ介入するんだ」と主張する人がいます。
たとえば聖書にはそういった話が多いです。
神はカナンの地での大虐殺を助けたとされます(というか命じたとされます)。

神は祈りにこたえて、天体の動きがとまるなんていう超自然現象まで引き起こしました。

”……ヨシュアはイスラエルの人々の前で主に向かって言った、

「日よ、ギベオンの上にとどまれ、
月よ、アヤロンの谷にやすらえ」
民がその敵を撃ち破るまで、
日はとどまり、
月は動かなかった。

……日が天にとどまって没しなかったこと、おおよそ一日であった。
これより先にも、後にも、主がこのように人の言葉を聞きいれたことは一日もなかった。
主がイスラエルのために戦われたからである。”

  ヨシュア記 10:12-14


 宗教の言うように、超越的な介入なんてあるのでしょうか?
これは分かりません。そういったのがあるのかもしれません。
超越的なものによって助けられたとする体験談は、宗教、スピリチュアル、臨死体験、、、、界隈で多いです。

しかし、なかなかアテにもできないと思います。
大きな歴史を述べると、欧米が発展したのは、キリスト教信仰の恩寵のためではなさそうです。

宗教(キリスト教会)の影響を世俗が打ち破って発展してきたというところがあります。
また宗教信仰とは全然関係ない、むしろ対立するような思想や技術の革新で発展してきたというところもあります。


 キリスト教以外ではどうでしょうか?
たとえばチベットはどうでしょうか?数多くの恐ろしい忿怒尊、護法尊が信仰されて、そのための儀式もありましたが、中国共産党と人民解放軍には全く意味がありませんでした。

 アフガニスタンはどうでしょう?
「異教徒の十字軍」「不信心な犬ども」、「神を忘れ物質主義に毒された」米国からやってきた軍隊が去った後に、礼拝を欠かさない宗教熱心な人たちに統治されるようになって、神の恩寵は注がれるようになったでしょうか?


 宗教が言っていることと、現実に起こっていることが、著しく乖離しているわけです。
だから宗教はおかしいと多くの人が思うのは当たり前です。

今の世の中には、もちろん様々な解決すべき問題、困難が多いです。
しかし賢明な人たちは、それを宗教や宗教の聖典をひもとくことによって解決しようなどと思うでしょうか?

むしろ政治、経済、教育、平和、人権、環境、エネルギー、公衆衛生、安全保障、、、、の現実的な諸問題に、宗教が関わると余計にややこしくなると感じるのが正常なのではないでしょうか?