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「四季」(『このあいだ』第1号 2020/10)

片岡喜彦『古本屋の四季』皓星社、2020

『キネマの天地』という邦画を観たことがある。大船撮影所への移転直前の、松竹蒲田撮影所を舞台に、そこに生きる映画人たちを描いた映画だった。 同趣向の作品として 『蒲田行進曲』 のほうが有名なのだろうが、ぼくはそちらをまだ観たことがない。

 映画にも本にも記憶に残る部分というものがある。 なかなか全体というものは掴んだり記憶に刻み込んだりするのが難しいものだ。

『キネマの天地』 で私が覚えているのはたったひとつのシーンだけ。 撮影所のスタッフだったか役者だったかの下宿に、 ある夜突然特高がなだれ込んで彼らをしょっぴいていってしまう。そのときの1カットに、本棚に並ぶ本の背表紙を写したものがあるのだが、 書名の一部に 「マルクス兄弟」 の文字。 治安維持法下、 共産主義運動が厳しく取り締まられていた時代と思う。 もちろん、マルクス・ブラザーズはアメリカのコメディグループであり、彼らについての本を所持することは検挙の理由にならないはずだ。しかし人の話を聞かず何事も決めてかかるような人間にとっては、 そんな滑稽な勘違いすらも真剣で、 (人の) 命をかけてでも遂行すべき任務となってしまう。

「古書片岡」の片岡さんにお会いしたのは、この夏の真っ盛りだった。 ポケモンが好きな4歳の娘といっしょに Pokemon Go をするため五宮神社へ向かっていた途次のことだった。

 昨年秋に今の住まいに引っ越してきた。 「古書片岡」は今の家から徒歩10分足らずのところにある。 実は2014年にも一度五宮神社には来たことがあって、 そのときも「あれ、こんなところに古本屋さんが」 と思ったのだったが、そのときはバスの時間もあって立ち寄ることができなかった。 以後、すっかり忘れてしまっていたが、娘との散歩のおかげで改めて出会うことができた。

 熱中症になってもおかしくない炎天下で (そんなときに子どもを連れ出すなとお叱りを受けるかもしれないが)、はじめはワゴンの中だけ覗いて神社に向かおうと思っていたものの、娘が「しんごうあおだよ!」 と言うのに、 「ちょっと待って、お父さん本が見たくて」 と答え、 店の中にも入ることにした。

 どんな古書店でも思いがけなく嬉しい出会いをすることがある。 そういう経験があるものでつい、 本やレコードなど、 自分の好きなものがある場所では時間を身勝手に使ってしまう。 だから基本的に古書店やレコード店には一人で行く。 待たせることに罪悪感があるのだ。 この日も案の定娘から「おとうさんはやくポケモンいこうよー」とせっつかれた。

「ごめん、 あとちょっとだけ待って」 と言ったか言わないうちに、片岡さんが娘に、 「ちょっと待ってあげてね、お父さんは本が好きだから」 と言ってくれた。 それが嬉しかった。 自分がここにいることをすっかり肯定されているような気がしたのだ。 私に何かを買わせようとするお店の人にも、そんなことを言われたことはない。

 片岡さんは娘に 「本は好き?」 と尋ねる。 娘は(たぶん) うなずいていた。

「本をたくさん読むとね、いろんな人の話がよくわかるようになる」

と、片岡さんは娘に言った。

 結局その日は何も買わなかったが、 お店のこと、 また片岡さんの著書のことについて書かれた新聞記事のコピーを頂いた。 その後、 五宮神社、 祥福寺と歩いて家に帰り、 片岡さんがどんなにいい人だったかを妻に話した。そのときふと、妻に見せていた新聞記事の写真の中、 片岡さんの後ろの棚にある「佐藤忠良」 の文字が目に留まった。

 安野光雅さんの 『会いたかった画家」という本で佐藤忠良のことを知って以来、 佐藤忠良の彫刻は自分にとってひとつのあこがれとなった。

 次に片岡さんを訪ねたときは、 佐藤忠良の本を見せて頂こうと思った。「あとがき」 に「佐藤忠良が亡くなっても、その仕事がよくわかるような本を」 というようなことが書いてあったが、まさに 「その人」 を伝えるような美しい本である。随分悩んだが、 番台に座って見せて頂いた日から何度目かの訪問で、 家族と一緒にその本を買わせて頂いた。

 片岡さんは労働者運動に長年かかわってこられた方である。 今年出された著書の 『古本屋の四季』 にも、 『共産党宣言』 の読書会をお店の二階でしたいと言われたお客さんの話が載っているが、 私には片岡さんの背景はそれで幾分知られるかと思っとっていたところがある。

 しかしお店でお話をするたび、 『古本屋の四季』を読み進むにつれて、 実はわからなくなっている部分がある。 それはぼくの中に勝手に作り上げた 「マルクス主義の人」 のイメージと片岡さんがかけ離れているからと思う。 片岡さんは頭が固くない。 過激そうなところははない。頭ごなしに人のことを決めつけない。自分の主義や信条に凝り固まっていない。こう文字で書くとぼくの持っていた「マルクス主義の人」のイメージは無茶苦茶である。マルクスやその思想について知らなかったわけではないけれど、「マルクス主義」の人という現実の人に出会ったことがなかったのだ。それにしても無知というものはおそろしい。むしろぼくのほうに「マルクスという文字が見えればこう反応する」 という『キネマの天地』 の特高に働いたような公式があっただけではないのか。

 かつて神戸学生青年センターの古本市で、 中国からの留学生に「昔の本ね」 と言われつつ買った 『資本論』 岩波文庫9冊も引越し時に手放してしまった自分だが、 片岡さんと話をするのに改めてマルクスを読んでみたくなった。

『古本屋の四季』 は、 子育てでなかなか思うように読書の時間が取れない中、少しずつ読み進めている。 古書店を営みながらのあれこれを綴りながら、 「自分を語る」 ところがほとんどない。 人助けのエピソードを語りつつ、 自分の親切なことを言いたいわけではないと断っておられる。

 では氏はいったい何を語っておられるのか。 それはタイトルにもある「四季」そのものではないか。 片岡さんも、お店も、 お客さんも、時の移ろいの中にある。 その移ろいの中でつながれていくものがある。 私は片岡さんの開かれたところが好きだ。 だから私も片岡さんを単に「いい人」 と決めつけてしまうことなく、つながりの中で共に本と人と出会って行く日々を過ごしたいと思う。

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