ホモソーシャルの罠

何を隠そう俺は男子校出身だ。
ゲイで男子校出身ならば、夢のような世界であったに違いないなんて想像する方がいるかもしれないが実態は別にそうでもない。

確かにクラスメイトの中にすごくタイプがいたことは覚えている。しかし別に何かときめくような出来事があったわけでもなく、クラスの人気者の彼に、物静かな自分は話しかけることすらできずただただ何の絡みもないまま学生時代は終わっていった。

男子校時代は自分がゲイであるということに気づいていった時期である一方で、いかにゲイであることがバレないようにするか気を使った時期であったのだ。

自分の心身の成長に最も重要な時期を男子校で過ごすことは、すなわち自分の中に強烈なホモソーシャル的価値観をインプットさせられることだと思う。

ホモソーシャル的集団の中では、自分の"男らしさ"を常に証明することが求められる。あいつはモテるモテないといった"男としての能力"をランク付けするような態度は教師も含めて広くまん延しており、アイツはナヨナヨしているからホモに違いないといった侮辱も当たり前のように聞かれた。

男性の中にはいつの時代もどんな場所でも必ず同性愛者はいるはずである。俺以外のクラスメイトの中にも同性愛者はいただろう。しかし、俺含め同性愛者は男子校というホモソーシャル世界の中でアイドルがどうだとか、エロい動画に出ている女優がどうだといった自らは同性愛者ではなく"ストレート男性の仲間である"ということを再確認する絆の儀式に参加することを強制され続けていたのである。

問題はここからである。俺の出身校はいわゆる進学校の一つであり、同級生の中にも高い社会的ステータスの獲得や金銭的成功をおさめた者がそれなりにいる。彼らは自分たちが一種のエリートであると言った意識を持つわけだが、彼らの見てきた世界にはホモソーシャル的なフィルターがかかっているのである。

ホモソーシャル的価値観でガチガチに固められた人間が社会の指導的ポジションについたらどんな社会となるだろうか。
そこに主流派たるストレート男性以外の存在を意識するまなざしはあるだろうか。

当たり前だが社会にはストレート男性以外の属性を持っている人間は多数存在する。ホモソーシャル的価値観では、同性愛者だけではなく、たとえば女性の存在も見落とされがちだ。

社会構造が複雑化する中で、ホモソーシャル的意識を背景とした"エリート"が再生産されることに一抹の不満を覚えている。

一方で男子校をなくせ、だとか安易な多様性理解の推進といったそれらしい結論に飛びつくつもりはない。恥ずかしながら自分の中でも何をどうすればいいのか良く分からないからだ。

ただそんな中でも、世の中に蔓延っているホモソーシャル的価値観に意識的であること、そしてその価値観で見落とされるまなざしについて想像を広げること、その二つだけは、ホモソーシャル的価値観を体験してきた"ホモ"として常に心に置いておきたいのである。

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