見出し画像

なぜ怒らないのか?怒りはどこからやってくるのか?

「今野さんってほんと怒らないですよね」

「今野さん、怒ることあるんですか?」

「今野さんってなんで怒らないんですか?」

とよく人から言われるくらい、自他ともに認める怒らない今野です。

なぜ怒らないのか?

これまで、「怒ることにメリットがないから」、だと思っていました。

・怒ると疲れる
・怒ると自分に返ってくる
・怒ると雰囲気が悪くなる

などなど。

でも、最近考えていて、どうやら違うっぽいぞ?と思い始めたので、書き記しておきたいと思います。

このときの思考を忘れないように。

怒りそうになったときに、この思考に立ち戻って来れるようにするために。


ところで、

「今野さんってなんで怒らないんですか?」

と聞かれたときに、僕の原体験をお話しすることが時たまあります。

僕が小学生のとき。

僕の母親と父親は、よく喧嘩をしていました。

それも大きな声を出して、物を投げたり倒したり、しまいには「離婚だ!離婚!」と言い出す始末。

子供ながらに恐いという感情とともに、「恥ずかしい」と思ったのを鮮明に覚えています。

母親も父親も仕事で疲れている中、余計につかれていて(母親は泣くこともあった)、

父親が何かについて母に怒れば、母は「そんなんあんたもじゃない!」と返す。

家庭の空気は非常に悪くなりました。

シーンと静まり返った部屋に、テレビのお笑い番組の笑い声だけが虚しく響いていました。

(こんな記憶もあり、テレビを見なくなったのかもしれません。)

まさに、"怒ることにメリットはない" です。


もう一つ原体験があります。

これを話し出すと少し話がややこしくなりそうですが、記録のために残しておきます。

この原体験は、僕自身が怒った経験です。

後にも先にも、僕がガチギレしたのはたぶんこの時だけです。

これも、僕が小学生の時の話。

当時の親友と近所の公園で野球をしていました。

とは言っても、僕と親友ふたりしかいないので、バッターとピッチャーだけです。

そのとき僕は対戦で負けて、勝ち逃げしようとする親友に向かって、

「ずるい!逃げるな!もう一回やるんだ!」

的なことを言って、キレながら泣いていたのを黒歴史として記憶しています。

今思い返すと超恥ずかしいです。

負けたのは僕で、親友は何も悪くないのに言いがかりで、ただの逆ギレです。

この原体験から、「怒ることは恥ずかしい」という教訓を得ることになります。


  • 怒ることにメリットはない

  • 怒ることは恥ずかしい

この2つの教訓から、僕は今日まで少なくとも我を忘れてガチギレしたことは一回もありません。

声を荒げることもほぼなかったと思います。


でも、最近思ったのは「僕が怒らないのはこの2つが理由ではないのではないか?」ということ。


なぜなら、「メリットがない」「恥ずかしい」というのは "理性" に基づいて判断しているからです。

状態としては、

  1. 怒りが湧いてくる

  2. 怒ってもメリットがない・怒ったら恥ずかしいと思う

  3. 声を荒げるのはやめよう

という順番で移行していく形になります。

これも確かにあるっちゃあるのですが、多くの場合はそうではなかったんです。

何が違うかというと、「そもそも怒りが湧いていない」ということです。

メリットや恥ずかしい云々と考えるまでもなく、怒りの感情すら感じていない。

「怒らない」というより「怒れない」んです。


怒らないことは良いことと言われがちですが、本来はそうではなく。

怒るべき場面でも、怒る気になれない。

良くも悪くも怒らない(=怒れない)のが僕という人間なんです。


ということはつまり、理性=意識というよりも、無意識レベルで何かあるということ。

価値観と言っても良いと思います。

表面的な理由ではなく、もっと深いところの根本の考え方と結びついているものです。


それが何なのか考えるきっかけになったのが、昨日書いたnoteの内容。

要約すると、「人は一人一人魅力があると信じているから、自分だけでなくみんなで作る」という内容です。

(かなり端折っているので、お時間あれば読んでみてください。笑)


「この人こういう悪いところもあるけど、どっか良いところもあるだろう」

簡単にいうと、こういう思考に至ります。

たとえば、理不尽なお客さんがいたとしても、怒ることは皆無と言って良いと思います。

(これは良い面でもあれば、悪い面でもあると思います。)

なぜなら、

「この人はこんな横暴なことを言っているけど、これまで生きて来られたということは、良いこともしてきたんだろう」

と思ってしまうからです。

良く言えばポジティブ。

悪く言えばお人好しなのかなと思います。


こういった論調で「怒りたいけど怒れない」という話があったりするのですが、根本的に違う。

なぜなら、そもそも怒りが湧いていないから。

「怒りたいけど怒れない」は、そもそも怒りが湧いている状態で、理性で押さえつけています。

だから、怒れない自分がイヤとなる。

でも僕の場合はそうじゃなくて、そもそも怒りを感じていない。

そして、怒れない自分がイヤともならないのは、根本の価値観から "怒らないことを肯定" しているからということになります。

怒れないのがイヤ、という感覚は「そこでは怒るべき」という価値観に基づいて生まれるからです。


そんなことを考えながら検索をしていたら、大変わかりやすい図が出てまいりました。


そういえば、僕は怒りの感情がほとんど湧いてこない、と散々言ってきましたが、

よく怒りを覚えることがありました。笑

それは、「何でこの人は怒ってるんだろう?怒らんでもええやん」という怒りです。


このことも、上記の図から説明ができるなと思い、この図を発見したことに感動しています!


上の図によると、

人を怒らせるものの正体は何でしょう?
「信号は守るべき」
・・・車が進入してきてイラッと
「時間は守るべき」
・・・電車が遅れて間に合わない→イライラ
・・・急いでいるのにパソコンが更新されてなかなか立ちあがらない→イライラ

このように、価値観、大切にしている考え方が怒らせるものの正体。
「べき」が破られた時、怒りを感じます。

https://www.luminoso-kawasaki.org/blog/training/2408/

とのこと。

つまり、多くの人が怒りを感じる場面では、「人には必ず良い面がある」という価値観に基づいて、

「こんな悪いことをする人にも、他に必ず良い面はある。トータルで見たら良い人かもしれない」

となって、怒りは湧いて来ない。


逆に、誰かが誰かに怒っている場面では、

「この人にはこういう良いところもあるのに、何でこの一面だけを切り取って怒ってるんだ?」

と、「人には必ず良い面がある」という価値観に反するので、怒りが湧いてくる。

こういうメカニズムなんじゃないかと思います。


「僕はなぜ怒らないのか?」

というテーマから筆を走らせるうちに、

「結局、僕も起こってたじゃーん」

という結論に至ってしまったわけなんですが、これもリアルな思考の流れなので仕方ないです、

これはこれで、書き残しておく価値があるなと思います。


ここからさらに思考を進めて、【怒っている人を見て、怒らないようにするにはどうしたら良いか?】を考えたいと思います。

なぜなら、怒ると疲れるからです。

怒ることに頭を使いたくないからです。

なので、できれば怒りは湧いて来ないほうがいい。


最近、これに対しても暫定的に「これかな?」という答えが僕の中にあります。

まず、なぜ怒っている人をみて怒ってしまうかを考えます。

繰り返しになりますが、僕の中の「人には必ず良い面がある」という価値観に反するからです。

「良い面があるのに、なぜその一面だけを見て怒れるのか?実に浅はかで腹立たしい」

ということですね。

文字にしてみると、なかなかイヤなやつです。笑


最近思ったのは、怒ることではなくて、そもそもこの価値観のほうに問題があるのではないか?ということです。

なぜかということ、この価値観が変わらない以上、どう転んでも怒っている人に対して怒りが湧いてきてしまうからです。

さっきの図でいう「べき=着火装置」が、価値観にあたるからです。

つまり、価値観が同じある以上、怒りが湧いてくるという現象はかわらないわけです。


最近、友人と話していて示唆的だなと感じたことがあって、それをシェアします。

かつ、その価値観は本人無自覚でコントロール外なのだと考えると
その無意識を形成する子どもの時期とかの関わり方を考えてしまいますし

相手に指摘したところで「なにいってん?」ってなることが多いので、必然的に相手の幸福を祈るしかできない、に帰着する諦念の感じが自分の中で暖かいんですよね

友人A

何が言いたいかというと、価値観=その人にとっての幸せは、そう簡単には変えられない。

だから、何か表層の行動や言葉に対して指摘(=自分自身の価値観に基づいている)をしたところで、行動や言葉は変わらない。

つまり、諦めて相手の幸せを祈るしかない、ということを言っています。


たとえば、あいさつをしない同僚に対して「あいさつをしろ!」と指摘するとします。

この指摘は、"人間同士コミュニケーションをとって円滑な関係を築いたほうが幸せ" という価値観に基づいている。

世間一般的には結構受け入れられると思います。

にもかかわらず、一定、頑なに挨拶をしない人がいたりする。

その人たちの価値観は、

友達はいらない 人間強度が下がるから

化物語

かもしれないわけです。笑

それは一般的にはマイノリティかもしれないけど、その人にとってはコミュニケーションを取らないことが幸福なわけですね。

そういう人にいくら「あいさつしろ!」と言っても、のれんに腕押し状態。

その人にとっては、あいさつをすることに何のメリットもないからです。


この話を持ち出して何が言いたいかと言うと、

「必ずしも自分の価値観=幸せの方向性が正しいとは限らない」

ということです。

言葉にしてみるとめちゃくちゃ当たり前のことなんですが、思考を辿ることで腹落ちした感じです。


つまり、僕は「人には必ず良い面がある。そう信じることが幸せに繋がる」と思っている。

でも、その価値観は一定ではない。

つまり、怒っている人には怒っている人なりの理由=価値観があり、それに基づいて怒っているだけである。

それは、僕が怒っている人を見て怒るのと何ら変わらない、ということです。

この思考に至ってからは、怒っている人を見たときに自然と、

「この人の大事にしている価値観ってなんなんだろう??」

と、考えを巡らせるようになりました。

怒りが湧いてくるより先に、です。


表層に出ている行動や言葉といった具体的な事象から、価値観という抽象的な観念の仮説を立てる。

帰納法的な考え方ですね。

今のところ暫定的にですが、この思考をインプットしてからは、かなり精神的に楽になりました。

そして、もっと人が好きになりました。

人の価値観って千差万別じゃん!おもしれー!

と、怒っている人を見ると思うようになってしまったので、やっぱりイヤな奴かもしれません。笑


もちろん、顔には出さないので許してください。

それでは、すみませんでした。

良かったらサポートしていただけましたら幸いです!記事更新の励みになります!