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2024年3月20日 N先生

この日の午後は、1年ぶりに母校に行った。今月ご退職されたN先生の最終報告を聴きに、シンポジウムに参加したのである。

シンポジウムのテーマは「聖地・神仏・認知」で、聞き始めて「N先生また新しい研究を始めたのか」と彼の自由さを懐かしくなった。先生は多分日本中世史が専門なのだが、「多分」と付けてしまう程に時代を超えて研究されていた。私が在学中に出席した授業では「気候変動と自然災害」を論じていた。文系なのに40万年前の二酸化炭素と気温の関係を表したグラフを読まされそうになり
ひぃ〜と授業を受けた覚えがある。でも先生は優しいので「ここの箇所に丸付けてね〜」とリモートで指示を出してくださり、蛍光ペンでどうにか丸した。

報告内容は先生が弊学の学会誌に記載されるのでここでは詳しく書かない。ざっくりと説明すると、「認知」という言葉は心理用語だが人間の進化の歴史の中で、文字使用と認知拡張の関係は歴史学の研究対象になること、日本語の漢字でなく仮名使用による認知拡張は起きているといった報告だった。仮名のくだりは外国人研究者コリン・レンフルーが指摘しているのを知り追究したそうだ。また今年提出された博士論文が引用されていたのだが、「10世紀の仮名文学作品は色彩表現が各作品ごとにルールが違い、高い論理的思考が見受けられる」と興味深かった。その論文と平安期の文学作品、読もうかしらと気になってしまった。

合わせてカタカナ使用の認知拡張から神仏観の変化を論じていた。「霊」の変容を追いかけると⋯と報告された最後に「課題山積」と締め括られて、変わらないなぁと笑ってしまった。N先生曰く、「仮名文字は注目されてきたが、カタカナに焦点を当て認知拡張について論じたら一発で専門家になれる」と課題を後世に譲ろうとしていた。

休憩時間に、院生になった同級生と再会した。会場は文学部の中で少し大きめの教室だったが、自分が開始前に入場したため、友達が何処にいるか分からなかったのだ。何なら空いていたから東洋史の教授に「お久しぶりです〜〜」と言い、隣に堂々と座っていた。学生時代の自分ならわざわざ先生の隣に座らないな(不真面目な生徒だったので)、変わったなぁ。
友人の内2人がN先生のゼミ生なので、4月から新しい先生になりまたてんやわんやするそうだ。今年修論を書く友人達にエールを送った。加えて「N先生の部屋の片付けは進んだん?」と問うと、諦めがちに「全然、手伝ってるけど変わらんで」と言われ笑った。先生、ゼミ生を片付けで困らせないでください。

その次は特任助教の方が、熊野信仰における神観念がどう変わったのか報告された。熊野に行ったことが無いので発表の資料で信仰を知ったが、現地で見てみたいと思った。あと史料で神名の変化を示す中で、当時神様の格付けが人間で行ったという説明を聞き「神様いたら怒らん?」とくだらないことを考えた。
途中、仏教は「釈迦という人間」が説いた教えであり、人間が人間社会の成り立たせる規範であるという言葉が残った。報告後の質問タイムで学科の中で1番偉い先生がその言葉を引き合いに出し、「世の中に残る宗教などは、発信者が書かず周囲の人間が記している。書き止める人間は二流ばっかりやねん」と言ったことを含め、面白いなぁと思った。

シンポジウムの後、飛び入りで懇親会に参加した。友人たちが懇親会の準備をするのでついて行き、1年ぶりに控え室や院生室に入った。友人にデスクが与えられているのを見て、机事情は会社と変わらんなと思った。控え室の冷蔵庫から大量のお酒の缶を、ラウンジに運んだ。

懇親会が和やかに進む中、酒を飲み軽食を食べつつ撮影した。自前のカメラを持ってきて参加者を撮っていたが、院生でカメラ担当が正式にいたので私は野良カメラマンだった。写真を後日集めアルバムを作成、N先生に贈るため参加者全員がバランスよく写る条件があり、私も撮影を手伝うことになった。参加者は凄く多い訳でないが満遍なく写すのは大変なので、カメラを持ってきて良かった。アルバムは友人達が作ってくれるので、せめての恩返しになっていればいいなぁ。

懇親会には学科の教授も参加していた。どの先生も顔を見せれば「懐かしいですねぇ」と声をかけられ、少し嬉しかった。優秀な学生でなかったので気恥しさも感じながら、現在印刷の仕事に携わっていると簡潔に伝えた。共に飲んだことがあるアザラシ先生(私が心の中で呼んでいる)がルーデュモンの赤ワインを開けてくださり喜んでいただいた。その後私が先生にお礼に紙コップに注いだ。

同じく働いていて、卒論で苦しんだ友人とも話した。彼女は出版社に勤めていて、お互いに「来月から先輩になるの怖過ぎる」と励ましあった。社会人になった同級生でシンポジウムに来たのが我々だけだったので、仕事の話をするものの最後は「明日(3/21)働きたくね〜〜〜」に帰着してしまった。
2人でN先生に話に行き、「顔覚えてますか?」とお聞きしたらやはり覚えてなく、先生のスマホの写真フォルダを遡らせて、卒業式に先生が撮った写真を見せつけた(先生は顔を忘れがちで、最初の授業は1人ずつ写真を撮り覚えるのだが、卒業式に「顔が違う!」と驚いた学生を再度撮影していたのだ。ちなみに卒業式の撮影の発端は私だった。授業の時はマスクを付けていたので目から下はノーメイクだったのだ。先生、卒業式の化粧褒めていたから余程最初の写真が酷かったと思われる)。なお私は卒業式と変わらずだが、友人は何度も見比べ「顔違くない?」と首を捻っていた。友人は卒業式とこの日の顔は同じだったので、これはもう先生が鈍いだけである。先生は「今の顔良いと思う」と言っていたので、良しとしましょう。

途中から撮影に専念する内に、N先生へ花束やプレゼントを渡す時間になった。うちの学科は緩いので、アザラシ先生が「段取り悪くてすみません、N先生5分後にまた前に来てください」、3分後「いやもう前に来てください」と和やかだった。
そして、N先生から最後の挨拶をなされた。私はしゃがみ先生の目の前で写真を撮りながら聞いた。先生は27年間いたそうだが、何と初期の頃は厳しかったと本人の口から聞いて声が出そうになった。私たち学生に甘いくらい優しい先生だったので予想できなかった。
当時先生は「中世空間論」に関連し「悟り」を研究していたのだが、それに付随してなのか人に優しくなったそうだ。悟りを開いたからか分からないが、学生が「レポート間に合いませんでした」「発表休みたいです」と報告されても「いいよいいよ〜」と思えるようになった、未だに理由が分からないので研究対象の1つに挙げているそうだ。女性も体調とか大変やしね、と言うのは講読の頃から変わらずで優しいなぁと思った。女子大に通っていたが、確かに同級生達も私も体調不良や精神面で辛い時は「できない」と欠席することは少なくなかった。理解のある先生で良かった。
今後先生は部屋の片付けを何ヶ月かかけて行い(?)、もう奈良に来ることは無くなるだろう、もしYahooメールに連絡くれたら時間をかけて返信します、と締め括られた。

以上が日記で、最後にN先生に感謝を込めて、思い出をここに記す。
初めてお会いしたのは編入試験の面接でしたね。もう1人の先生と共に質問をされ、滅茶苦茶気まずい受け答えをしたような覚えがあります。会場だったS棟を出た瞬間、小雨の寒い中「絶対落ちたわ」と開き直って帰りました。まさか受かって半年後にお会いするとは思わず、授業が始まってから他の編入生と共に「面接でしどろもどろになったから授業で会うと(悪い意味で)ドキドキする」と共感してました。

授業を何回か受ける内に「この先生ゆるくて優しいな?」と気付き、また授業を楽しく受けられるようになりました。3回生の初夏まで、リモート授業が多く先生の授業では「今日中に全部終わらないかも」と笑いながら信仰されていましたね。1回だけ、先生のリモート授業であまりにも眠い&気候変動の話が難しくて、床に大の字で眠ってしまったことがありました。すみません。
先生の授業で1番面白かったのは、購読で『吾妻鏡』を読み、担当箇所で自由に発表したことでした。1回目は先生の優しさに助けられ来週に延期し、当社比で中身が充実した発表を行うことができました。確か東大寺再建の関する自然史の話をしたのを覚えてます。2回目の担当箇所はあまり気が乗らず曖昧ですが⋯。

先生はヘビースモーカーでしょっちゅう煙草を吸いにキャンパス外へ出てはりましたね。4回の歴史フィールドワークでは、志賀直哉旧邸でアザラシ先生が説明する中、目の前の住宅地で煙草を吸い出した時思わずシャッターを切りました。同級生の間で良い写真だと盛り上がりましたが、誰かにデータを上げれば良かったなぁと思います。それこそ先生に渡せば良かった⋯のか?
この日の懇親会でも、主役なのに何度か抜け出し煙草休憩に行かれていましたね。途中雪が降っていたのでビニール傘を持ってまで行っていて笑いました。勿論帰ってきた時の写真はアルバム作成係にお渡ししました。

ここまで取り留めなく書いたが、N先生の優しさで大学(主に課題)をこなせられたと思います。ありがとうございました。

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