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猫に老婆

女性の家に上がると、広い玄関から奥に続く廊下に猫がいる。家じゅうに猫がひしめいている。リビングに上がって熱い茶を出してもらい、食卓で向かい合い話を始める。

2時間ほど経った。その間ずっと、部屋の隅に置かれたソファの上に、猫に紛れた猫のような老婆がひざを抱えてちょこんと座っている。

「こんにちはー」と、何の警戒心もよそよそしさも感じさせない表情でニコニコと最初に挨拶をしてくれた時は気づかなかった。老婆は認知症のある人だった。

女性はその母親について、最後までわたしに何の説明もしなかった。「母です」とも言わない。「認知症の母が同じ部屋にいてもいいですか」とも断らない。2階にある彼女の仕事場を見せてもらったが、わたしはひとりでそこを見た。仕事場にわたしを招いて話す選択肢などはなからないようだった。猫と認知症の母がいるリビングで話をする。そう決まっていた。

わたしは、それがとても心地よかった。彼女と話をした内容はあまり覚えていない。たくさんの猫と老婆と彼女がいるあたりまえの空間を訪れ、それをあたりまえのようなフリをして話をしているうちにほんとうにあたりまえになって家を出た心地よさだけが残っている。

エモいという言葉は好きではない。エモいが指し示す何かの方は総じて好きである。もうふたりとも会えなくなったが、次に会う約束もなかった。



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猫のいるしあわせ

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