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3人で本をつくる

『子どもが「学びたくなる」育て方』という本をつくった。

「教育」の本。幼児期から思春期までの「子育て」の本。おもに小中学生のお母さんお父さんそのほか保護者のみなさんに読んでほしい本だ。ということは小学生前の子の親であるあなたにも読んでほしい。

「親が望む進路に導く方法」ではなく、「子ども自身が望む道」を見つけるために「親ができるいちばん大切なこと」を伝えていく。

誰が。

横浜に「知窓学舎」という小さな学習塾がある。いま教育界で注目されている「探究型学習」を27年前から実践してきた矢萩邦彦というこの塾の塾長が著者だ。

今後起こりうる事柄を指して「正解のない◯◯」という枕詞が耳にタコとイカができるほど聞くようになり、続けて「リーマンショック、震災、AIの台頭を経て」までが枕詞だったところにダメ押しのコロナ禍が世界を覆い一挙に枕詞の現実味に拍車がかかって教育界も変わり始めた。

学校のカリキュラムに「探究的な学び」が組み込まれ、「正解のない◯◯」というスローガンは「模範解答のない受験問題」として受験期の親子の前に実体化し、時代に問われるものが「すでに用意された解答にたどり着く力」から「予測不可能な事柄に対応する力」へと180度転換した。

知窓学舎は、そういう変化の時代を貫くように「すべての学習に、教養と哲学を。」を標榜し「探究型学習」と「中学受験」の両立を目指し続け、両立というよりも「中学受験は探究的な生き方を養う機会になる」と捉えて知識を無理やり詰め込まない、偏差値に囚われない、生徒を追い込まない、学びそのものの楽しさを味わうことをモットーに歩んできた塾だ。

いや「偏差値に囚われない」「生徒を追い込まない」とか言ってそんな理想論で受験戦争など勝ち抜けないと思うかもしれないが、事実受験を決めた生徒のほぼ全員が志望校へ進学していくと取材中に聞いて驚いた。驚いたが、「合格」が学習塾の価値であるという自分の中にある古い価値観が自分を驚かせたのだろうと今なら思う。

とにかく、今の時代の親子に求められるようになったことを遥か以前から実践してきた教育者が、その考え方と方法と希望を、現代の親子に託す本が『子どもが「学びたくなる」育て方』である。

このnoteで書き残したいのは「本ができた背景」のほうなので、概要はこの程度にする。詳細はぜひ、下記の目次をご覧になってみてください。

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拡大できるんですよこれ
拡大したほうがいいと思いますよ
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「ライター」がいる仕事

昨年末のある日、フリーライターの岡田寛子さんからメッセージがピロンと届いた。ぴろこからのピロンである。

「魅力的な人がいるから、今野さんといっしょに本が作りたい」という内容だった。岡田さんとはお会いしたことがなかった。矢萩さんのことは知らなかった。それでもお話を聞いてみようかなと思ったのは、文末に「今野に声をかけた理由」が書いてあったからだ。根本的な入口はその一点である。

「依頼文の書き方」を教えてほしいと聞かれることがある。一番大切なのは「わたしにとってあなたでなければならない理由」をどう書くかだと思う。型などない。あるのかもしれないが興味がないし、他の人のやり方も知らない。でも、わたしはそう思っているからわたし宛にそれが書かれた依頼に惹かれた。100万部売れる本も、たった一人の熱から始まる。

書籍編集の仕事に就いて10年をとうに越えたが(信じられねえ)、「ライター」と一緒に作った本が数えるほどしかない。

「ゴーストライター」という言葉は時代の波に飲まれて無事ゴースト化し、本の最初や最後にクレジット表記され、本を書く時間が取れない経営者のために、文章を書き慣れない人のために、欠くべからざる存在としてのライターが関わっている書籍は多い。いくつかのライター講座にゲストで呼んでいただいたことがあるが、「ライターになりたい人」も増えている。わたしの知る限り、別の仕事を辞めたり居住地を移してまで目指したり、金を払ってフィードバックをもらいにいくような真剣な姿勢で職業としてのライターを志す人は多い。

それでもわたしがライターとの仕事が少ないのは、別に嫌な思いをしたことがあるとかではないんです。ただ、著者と二人でトンネルを掘ったり人里離れた山を登ったりして、戻ってくるまでの過程で完成した何かを閉じ込めて俗世に放つような本作りが好きなだけだ。

しかし、実際問題として考えると、著者と編集者の間にライターが入れば2人が3人になる。ペアがチームになる。線が面になる。人間がひとり加われば当然の話としてコミュニケーションの量は増える。しかも単純に倍になるのではなく飛躍的に増えるのだ。

「著者⇆編集者」だけであった量から、

「著者⇆ライター」
「ライター⇄編集者」

の関係性とコミュニケーションが新たに生まれ、さらに「3人同時のやり取り」が発生する。タイトルでも章構成でも見出し一つでも、何か物事を決める時にもし3人の合意形成を条件にすればいつまで経っても本ができないことになりかねない。

そこで、通常は3人の「役割分担」を決める。決めずとも暗黙のうちに慣習の中で役割は決まっている。そして役割分担はハッキリさせればさせるほど「分業」に近づいていく。著者はしゃべり、ライターは書いて、わたしは編集する。著者を頂点にして、半ば従属的にライターが存在し、現場監督みたいな自分がいる。それがもっとも効率的に本を建設できるフォーメーションだからだ。

わたしはこの「効率の良さ」に流れていく制作過程を好きになれないがために、ライターと仕事することを避けてきたのかもしれない。次の工程が行われている部屋が見えない工場のような、誰かの仕事に別の誰かが関与することを「コスト」と捉えるような、有機的でありえるはずなのに機械的になっていくイメージを勝手に持っていたような気がする。

しかし今回、そうはならなかった。

たぶん2つの要因があって、ひとつは全員が「書く編集者」であったこと。もうひとつは全員が「読者対象」であったことだ。

「パラレルキャリア」という言葉に当てはまらないほどの多彩な活動をする著者の矢萩邦彦さんは、Yahoo!ニュース個人のオーサーであったりマイナビに連載を持つ人でありつつ、編集兼ライターとしていくつかの書籍に制作者として携わっている。そもそもパラレルキャリアというのは職業や活動を越境しながらさまざまな接点を見つめて結合点を見出す生き方であると思っていて、それは「編集者」の視点そのものである。

矢萩氏の略歴。長さだけご体感ください。

そして、ライターの岡田寛子さんは、以前、ある出版社の編集者だった。ベストセラーの担当編集でもあったから、わたしも名前は存じていた。そしてわたしはもちろん現役の編集者であり、こうやって誰に頼まれているわけでもない文章を書いたり同人誌に寄稿したりしている。

そして、全員が10歳に満たない子育て真っ最中の親である。この本は幼児期から思春期の子を持つ親が想定読者であるから、全員にとってコンテンツが「自分事」だった。「自分の子どもの話」を互いに詳しくしたことはないが、おそらく3人とも自分の子どものこと、子どもの未来のことを考えながら制作にあたってきた。

つまり、「書く人」「読む人」「編集する人」「読者としての親」という、この本の当事者の条件を3人全員が揃えていた。

そうなると「役割分担」はあまり意味をなさなくなる。3人でやるなら3人でしかできないことをやりたいと思うわたしにとって最高の布陣だった。取材も原稿判断も校正もタイトルもデザインも役割を越境しまくって意見を出し合い決めてきた。

種火を守る

3人で仕事するおもしろさについて、今回、1つ感じたことがある。3人の制作過程は、モチベーションの火をつないで書籍という聖火台へ走る聖火リレーみたいだった。聖火リレー走ったことないけど。

3人いれば、3通りの人生が交差する。みんないろいろある。家庭があり、小さい子どもがいて、別の仕事もある。人間だから体調を崩す時もあるし、常に最高潮のモチベーションで走り続けることも難しい。事実、制作中に全員が一度以上体調を崩し、発売のタイミングも当初の予定からズレた。

人数が増えるということは、助け合える可能性が上がることだった。誰かの体調が崩れた時、モチベーションが揺らいだ時、「じゃあ今は俺が走る」「そこはわたしが代わりに走れる」とカバーし合える。「役割分担」ではなく「効率の良さの追求」でもなく、日本女子スケートのお家芸になりつつあるパシュートの先頭滑走者が入れ替わるように、燃える火を絶やさぬように、「今はわたしがやるときだ」という3人の「模範解答のない決断」の積み重ねでこの本はできた。それは、思っていたより楽しい過程だった。


……などと、膝突き合わせるよなさぞ暑苦しい制作過程だったであろう書き方をしましたが、ここまでの話、すべて電子に載せたやりとりなんです。企画から制作、完成まで、わたしは一度も矢萩さんにも岡田さんにも会わなかったし、会えなかったんですよ。

それもきっと時代の要請で、今は企画から制作、完成どころかPRまで著者と一度も会わないこともザラになりました。書籍制作もオールドスタイルからの過渡期にあって、変わろうとしている日本教育のあり方を語る本を作るにあたって、わたしも「会わないとダメだ」「ライターと仕事しない」みたいな凝り固まったスタイルを壊して作った本でした。

できてから会った

さて、この本は今週発売したのだが、発売後最初に感想を伝えてくれたのは、まさかのつるの剛士さんだった。

信じる。

この本は、「知る」「対話する」「探す」「やってみる」ときて最後「信じる」で終わる。

教育とは、未熟な者を思い通りに操ることではない。未来を、「子ども」と呼ばれる同時代に生きる若者を、そして彼らを信じる自分自身の存在意義を信じる過程である。知らんけど。

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