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冬の石垣島で見かけたお婆さんと少女。

今から13年前の2007年の12月に私達は夫婦で初めて石垣島を訪れました。まだ娘が産まれる前の話です。マリンスポーツに縁遠い私達には12月のシーズンオフが丁度良かったのです。

冬の石垣島は狙い通り大正解で、観光客の数自体も少ないし、島全体が落ち着いていてとても静かな印象でした。

実は2018年の8月にも渡航しているのですが、その時は空港も街並も様変わりしていて、中国人観光客の方々も大勢おられ、ビーチには大音量で音楽が鳴り響き、まるで島全体が一大リゾート施設の様になっていました。

さて話を2007年に戻します。私達はレンタカーを借りて島最北端の平久保崎灯台に出掛ける事にしました。石垣島は基本的には海沿いを島の形に沿って走る事が出来ます。渋滞は全くありません。

ですが地元のドライバーの方々はとてもゆっくりと運転しておられ、都内の感覚で走っていると顰蹙を買いそうなので私も時速35キロほどでのんびりのんびり運転しました。

市街地を抜けやがて街路樹が南国特有のものに変わり、その伸び放題の枝が頭上を遮り、大きな落葉が路面を覆いつくす様になったところで、平久保崎周辺に差し掛かります。

平久保崎にはとても敷地の広い小学校があるのですが、全校生徒は5人程だそうです。今は多少変動しているかも知れませんが。

その小学校を通り過ぎたあたりで道端に一人のお婆さんが立っているのを見かけました。グレーの農作業用の服を着た腰の曲がったお婆さんです。曇空で風も結構強いのに、あのお婆さんは何故あんな所に立っているのだろうと不思議でした。あたりには他に誰もいませんし、車も滅多に通りません。道の両側は背丈程の高さのサトウキビ?らしき植物が生い茂っています。

私達は不思議に思いながらもその場を通り過ぎ目的地の灯台へ行き、写真を撮ったり岬から荒れた東シナ海?を眺めたりと観光をして、帰路につきました。

するとなんとまだあのお婆さんが同じ所にいたのです。多分1時間は経っていたと思います。私達は何かあったのかな?と思いゆっくりとその場を通過しようとした時、前方から1台のハイエースがトコトコやって来ました。そしてそのお婆さんの前に停車すると、中から小さな女の子が飛び降りて、お婆さんにかけ寄り2人で手を繋いで歩き出したのです。

2人の行方を目で追うと道端のサトウキビ?の間には細い道があり奥に集落があるのに気付きました。全て平家で屋根からTV用のアンテナが突き出ていたのを覚えています。
見える限りでは商店は一軒も無く、自販機も一つもありません。家畜用の囲いが所々に見えるだけでした。

私達は、その集落に暮らすお婆さんが通りまで孫を迎えに行って1時間以上も待っていたんだな。と判りました。迎えに行くの早過ぎでしょ?って気もしますが…。

その光景がなんとも暖かくて、女の子がお婆さんにかけ寄る時の嬉しそうな顔とか、迎えるお婆さんの優しそうな表情が何とも印象的でした。

そしてその日夜。ホテルに戻って夕食を終えた後、妻はホテル内のエステに行き、私は部屋の中で一人で持参したギタレレという楽器(ウクレレとアコギの中間種)を弾いていました。

その時、石垣島という場所、空気、景色、伝統等を感じて"ちんさぐ"という沖縄民謡風の曲が出来ました。とても良い出来だったのでシングルとしてCDまでリリースしたのにあんまり売れませんでした。赤字です。

でも売上はともかく私達にとってはとても大切な曲である事に変わりはありませんし、その曲が降りてきた石垣島は私達にとって本当に特別な場所になりました。

東京に帰って来て普段の生活に戻り、首都高や第三京浜を車で走行している時にふと、今頃あそこではまたあのお婆さんが通りでお孫さんを待ってるかな?と思い出します。

石垣島、しかいとぅ みーふぁいゆー
(有難う御座いますの方言だそうです)


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