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言葉の奥を想像する


先日、親友Tと久しぶりに会いました。
大学時代、苦楽を共にした仲でかれこれ15年以上の付き合いです。遠く離れた場所に住んでいるので頻繁には会っていません。年に1回くらい会うペースでしょうか。毎回会っても久しぶりという感覚はなく、「よっ」と言い合う家族のような感じです。
でも今回は妙に久しぶりの感覚でした。なぜだろう。久しいと感じるくらい私は濃厚な日々を過ごしていた、ということだったのかもしれません。
Tを駅で拾い、カフェに行き、家で喋り、後輩たちの公演を観て、再び家で喋り・・・1日ほど一緒に過ごしました。

私「なんかさぁー すごい久しぶりに人とちゃんと喋ったわ〜」
T 「ええっ?(笑)」

ちゃんと喋ったという感覚は、コミニケーションが取れたという感覚です。これは、『相手の話を聞く』のと『自分の話を聞いてくれた』のふたつが、同じくらいの質量感を持てたときに感じるようです。


また、こんなやりとりもしました。

私「なんかさ、Tと久しぶりに喋ってて思ったんだけどさ、『言葉』ってすごいいろんな感情とか感覚が集合した上で出てくるものじゃん。だからさ、本当にその人の気持ちとかをわかるためには、同じ『嬉しい』でも、どんな背景があってその『嬉しい』って言葉が出てきたのか、想像したり質問したりする必要あると思うのよね。」

起き抜けの彼女の眼差しが少し見開くのが見えました。
T「めっちゃわかる。」

私「ね。言葉ってものだけを鵜呑みにしちゃ危なくてさ、その奥に隠れている、本当はどう思ったり何を感じたり、何をわかってほしいと思ってこっちに言葉を発しているのかを、想像力を持って聞くって姿勢をさ、私とTは自然に持ててるなって思ったのよ。だから話すのが楽だし、言葉が出やすいのかもなって思ったの。」

T「そうだね、そうだと思うよ。」

彼女にミルクチャイを淹れながらやりとりしました。こういうことをさらっと言い合える仲です。とてもいい朝でした。


みんな言葉を使っていますが、それらを使いこなすのはなかなか難しいものです。伝えたい、わかってもらいたいけどなかなか伝わらなかったり、後から振り返ったら全然的外れなことを言っていたり、人によって様々あると思います。便利なようでいて不便なものでもあるなと感じます。だから私は聞く姿勢と想像する姿勢を並行して持つようにしていたんだと、親友と話していて気づきました。言葉をそのままの意味として鵜呑みにしすぎないことです。そして、そういう姿勢を持ってくれている人(=自分を理解しようとしてくれる人)とのコミニケーションって楽なんだなと感じました。

Tには「長生きしてくれ〜」と言いました。
笑われましたが「今この一瞬で色々感じたんだね」と言ってくれました。
大切にしたい繋がりです。


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