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『かのように』(2023年文藝賞最終候補作)※試し読み

 直人が目を開けると、目の前で大きな腹がゆらりゆらり揺れていた。瞬時に立ち上がって座席を譲り、妊婦に感謝される。道義心だけではない。妊婦の腹を見ると、胎児が腹を裂いて出てくるイメージが浮かんでしまう。
 夕方、直人は財布とスマホだけもって家を出たのであった。Tシャツにショートパンツで足元はサンダル。コンビニへ行く途中で思いついた。このまま、いったん実家に帰ろうと。父親の義男に電話を入れた。
 直人は窓の外を見やる。上野公園の木々が目に入る。どうしているだろうか、紗英は。今、二十歳になった紗英とどんなふうに話せるのかと思う。二人は十四も歳が離れている。丸くなっているだろうか、直人が家を出る前のように、一言一言言葉を握りしめ刺してくるだろうか。高校生の紗英に帰宅が遅いと注意すると、二言目には家出たら? とあきれられた。正規の図書館職員のため実家を出られないことはなかったが、紗英が大学生になるまでは家にいて協力したかった。兄としてそれが正しいと思っていた。窓の外を凝視すると、目の隈が濃く頬の肉を少しこそいだような男の顔が木々に被さっている。
 日暮里駅に着くと、直人は階段をくだりながらおみやげでも買うかと思案する。夕焼けだんだんをくだり商店街を一望すると、お総菜でもいいかと思い直す。
 
 富士見坂の坂下にある住宅街の一角――家々が所狭しと立ち並ぶ小道に――直人の実家はある。駅から十分ほど歩いただけで、直人は刻々と垂れ流す汗によりTシャツと背中をくっつけた。不快だ。さっきから警戒心のない猫が自分の前をのそのそと歩くのも気にさわる。邪魔だ。急に思いついたように猫は走り出し先に通りから小道に曲がると、家々の影に沈み込んだように姿を消した。
 家の前で一息つきチャイムを鳴らすと、すぐさまドアノブが回り紗英が笑顔で登場する。その懐かしい爬虫類型の顔を見た瞬間、直人はどきりとしてしまう。おかえりーと紗英は喜びを満面にして直人を迎える。暑かったでしょう。あ、やせた? 紗英は左手でうちわをあおぎ、ずいぶん古いワンピースを着ている。ああ、久しぶりと直人は平静を装って中に入り、性急に油が染みた紙袋を差しだす。メンチカツとコロッケ。商店街の? よく買うのにと半ばあきれながら紗英は親しげに笑う。
 なんとなく逃げたい感じがあり、荷物もないのに直人は自室へ行こうと階段を上り始める。部屋? ああ、ちょっと見ようかと。紗英はシーツかけといたよと言い、直人が上がっていくのを見ながら、お父さん、直人来たよ~と居間に向かって呼びかける。直人は家を出る前、雑に兄貴と呼ばれていたと思い出す。あまり呼ばれもしなかったが。
 直人はベッドに座り息を整える。確かにきれいにシーツはかけられている。部屋は代わり映えしない。父親のお古の机とイスと空の本棚。引っ越したときに出たきりだ。窓を開けると同じような高さの住居が並ぶ。谷底に人がうじゃうじゃといるのだ。部屋は蒸し暑く、身体は涼みたがっているが動く気がしない。緊張は嫌だ。ひとまず落ち着きたい。
 どういう気だろう。あの服装、あの髪型。
 突然、スマホのバイブが鳴る。直人は画面を見るや否やぎゅっと目をつむるように電源を切り、少しするとさもしょうがないと言った感じで立ち上がる。
 居間に鈴の音が鳴り響く――直人は合掌し、お供えものを買い忘れた不義理を心の中でわびる。目を開けて遺影と目を合わす。見れば見るほど母の早妃は紗英に似ている。いや、紗英が早妃に寄せているのだ。今やボブにした髪型とその長さまで同じである。
 すぐ後ろで義男があぐらをかいていることに気づく。直人は向き直りエアコンを見て、新しくしたんだと聞く。けっこう前だな。あ、そう。最後に来たの、二年前くらいか。そうだね。ちょっとやせたか? ちょっとね。仕事は、変わらず? うん、図書館。そっか。義男はほっとした顔を見せる。お父さーん、ちょっとーという網をかけるような紗英の声が台所から聞こえてくる。はいはいと義男は手繰られ立ち上がる。
 直人は部屋を見回す。長い間使われていないエレクトーンが今でもある。兄妹ともに早妃の友人である麗子先生に習っていた。ベランダにはナスやミニトマトがなり、テーブルには花が活けてある。直人には花の名前がわからない。家にいたときはなかった。母がいたときはあったかもしれない。
 紗英は変わった。少なくとも明るくはなった。台所からは楽しげな声が聞こえる。直人は振り返り、紗英と義男が仲睦まじく餃子を包んでいるのをしばし見つめた。

 かんぱーいという紗英の声とともに三つのグラスがカチリと合わさる。 食卓にはだだちゃ豆、餃子、なすとピーマンのしぎ煮、直人が買ってきた揚げ物、各々の前には細切りした大根の味噌汁とご飯が並ぶ。
「料理してるの毎日」と直人は紗英に聞く。
「しょうがないじゃんねえ」と紗英は義男に同意を求めるように答える。「でも、俺がいたときぜんぜん」
「誰かやらないといけないでしょ」
「まあそりゃ」
 それに、と紗英は義男のひじに触れて言った。
「私、この家のお母さんになったから」
 え? と直人は声をあげ、義男を見る。義男は紗英の手から離れてグラスをとる。
「ほら、俺下手だしね」
「でも焼くのうまくなったよね」と紗英は餃子を顎で指して言った。
 直人は二人をいぶかしみながら味噌汁を手に取る。気持ち悪い、夫婦のように。一口すすると、唇を焼くような熱さと白味噌の薄味に遠い記憶のつぼを押された心地がする。義男が直人を見ていた。
「麻理子さんは?」と紗英が聞く。
「ああ、忙しいんだって」
「夏休みじゃないの?」
「なんかいろいろ。俺も急に来ようと思ったから」
「なんの荷物もなかったもんね」と紗英は笑う。
 義男が枝豆の殻入れを探すと、紗英はすぐさま立ち上がる。
「後でちょっと話したいんだけど」
「ああ、じゃあ書庫で」
 紗英が黄色いボウルをテーブルにもってくる。
「もらった桃もあるんだけど」
「お腹入らないよ」
「明日でもいいんじゃない。そんなすぐ帰らないだろ?」
「まあ明日とか明後日には」
「いつまで? お盆休み」
「今週いっぱい」
「そしたらもっといればいいのに、ねえ」
「ああ、久しぶりなんだし」義男の言葉に身が入ってないと直人は思う。
「何度も連絡したのに、心配してたんだから」
「ああ、ごめん」
 そうだったか。そんなにメールも電話もこなかった気がする。
 義男が太股をかく。
「刺された?」
「ああ」と義男は言って蚊を目で探す。
 紗英はにわかに踊り出すように立ち上がり、タンスの上にあるチューブ状の塗り薬をもってきて、義男のかたわらにかがむ。
「すごい赤くなってる」
「いいよ」
「ちょっと、なに照れてるの」と紗英は義男の太股に塗りたくる。
 直人が冷めた目で一瞥すると、義男は視線を逸らす。紗英が起き上がり、直人は刺されてない? と聞いてくる。刺されてないよと言いながら、彼はふくらはぎをかく。紗英は少々はしゃいでいると思う。
「あ、ねえ、あとであれ見ようよ」
「あれ?」
「この間出てきた、直人が赤ちゃんのときのビデオ」
 直人は恥ずかしいからいいと言ったが、早妃も映っていると聞かされると瞬時に何も言えなくなってしまった。
 食後部屋の明かりを消し、白壁に八ミリフィルムの映像が映される。赤ん坊の直人がよちよち歩いている。その横に当時二十五歳の早妃がいて直人の顔の前で拍手をしている。早妃はバンダナをしていた。そのころの流行りだったのか、直人は母のバンダナ姿を新鮮に思う。
 現在の直人が映像の早妃をちらっと紗英と見比べる。年が近いせいか、より似ている。紗英が見てくる。直人は映像に視線を向ける。赤ん坊の直人は早妃に抱っこされている。直人は早妃のカメラ目線と紗英の視線に挟まれ、頭をかく。

 紗英が風呂に入っている間、直人と義男は書庫に入る。風呂場に居間の声は聞こえてしまう。
 散歩系雑誌の編集者である義男の書庫は壁に沿って本棚が設置され、本や雑誌がぎゅうぎゅうかつ乱雑に積まれている。直人は棚の揃っていない本の背を指でなぞる。
「気持ち悪くない?」
「全然」と義男は答える。
 直人は本棚から本を掴みだす。
「え、いいよ」
「なんか嫌なんだよ」
「すぐ元に戻るのに」
 数冊の本が棚の脇にぐっと寄せられる。
「どう思ってるの、紗英のこと」
「これからのことか」
「いや、今の二人の暮らし」
「どうって」
「なんか夫婦みたいで気持ち悪いよ」
「そうか?」と義男は本棚から本を一冊とる。
「髪だって服だってお母さんの」
「いつの間にか出したんだよ」
「お母さんの味の味噌汁もなに?」
「やっぱそう思うか」義男は本を手の中であまらせる。
「つくらせてるんじゃないの」
「そんな訳ないだろ」
「じゃあなんで同じ味」
「わかんないんだよ」
「要はお母さん求めてるから、ああなるんじゃないの?」直人は少し強く出てしまったと思う。
「前から、昔から似てるだろ」
 直人は義男の本をもらい本棚に強引に差し入れた。
「直人が家を出たあとしばらくしてからかな、似せるようになってきたのは」
「何かあったの?」
「いや、何も、多分。それより、どうした急に」
「え? なに? 来ちゃいけなかった?」直人は嫌な感じが出てしまったと思う。
「いけなくないよ全然。ただ急だったから」
「急に思いついたんだよ」
「なんか、話したいことでもあるのか」
 いや、特にと直人は本を指でなぞりながら言う。まあ思いついたらいつでもと義男は言葉を置いていき、書斎を出る。
 直人はしばらく本の整理をし続ける。本は揃っていなくてはいけない。

 入浴剤が入った白い浴槽に浮かぶ長い髪の毛。直人はそれを指ではらいながら、紗英が小さいころ、いっしょに風呂に入っていたことを思い出す。あのころは仲がよかったと思う。頭を洗った。背中を洗ってくれた。浴槽につかり、しりとりをした。直人が小さいころは、早妃が頭を洗うのを浴槽から見た。歌を聞いた。あれは何の歌だったか。
 イスに座り、鏡に映る自分の裸を見る。お腹回りには凡庸な脂肪がついている。何も考えず毎日ビールを飲んでいた時期がある。元々痩せ形だから気にせずいたら、いつのまにかこうなっていた。額にあるしわもそうで、ある日起きたらついていた。加齢も加重も一気にくる。今の自分は二人にはどう見えているだろうか。少なくとも成熟や洗練とはほど遠い。また浴槽に戻る。気がつくと、直人は湯がぬるくなるほど風呂に入っていた。
 風呂を出たあと、髪を曖昧にタオルで乾かしたまま、直人は豆電球だけ残してベッドに横になりスマホでインスタを見続ける。世界には無害なかわいい子が無限にいると思う。いや、無害だと思いたいだけなのだが、皆堂々としていてうらやましい。性欲に結びつけないで女性をこうやって永遠と見続けたい欲望はなんなのだろう。消費もせず耽溺までいかず、見ることそのものに少ししがみついている時間。
 しばらく呆けて見ていたらノックの音がして上半身を起こすと、紗英が夢の中に入るようにベッドまで近づいてくる。紗英はすっとベッドにのり、足疲れてない? と直人の足首をひざの上にのせ、足の裏を押す。どう? うまいね。マッサージ屋さんなれるかな。なりたいの? ぜんぜん。なんだ。ここは、どう? と紗英は直人のふくらはぎをもむ。うん、気持ちいい。いいでしょ。夕飯おいしかった。よかった。明日なにがいい? なんでも。お父さんみたいに言わないでよ。豚しゃぶとかは?
 直人はすらすらと言葉を重ねる彼女に欺瞞を感じ、足をもむ紗英の手を制止する。
「味噌汁、どうやってつくったの?」
 紗英は直人の手に手を重ねる。
「今度いっしょにつくろうね」
 紗英は立ち上がり、遠くの世界に向かうようにドアを開けて振り返りささやく。おやすみなさい。ドアが閉まると、直人は調子が狂い、わずかに開いているカーテンをピタリと閉める。なんだあれ、演劇のように。役者のように。
 少し休めるという算段で帰ってきた。だが、自分がしっかりしなくてはいけなかったのだ。義男には当事者意識がない。紗英も家を出たほうがいい。少なくとも大学を卒業したら。母親ごっこなどせず。一度切断しないと適切につながれない……今の自分に何が言えるか。足の踏み場がない。神経が高ぶりなかなか寝つけない。隣の紗英の部屋が閉まる音がする。直人はしばらくじっとしたあと起きあがり、自分より少し若い巨乳のグラビアアイドルの画像をスマホでダウンロードし、暗い部屋の中で射精してから強引に寝入った。

 直人が目を開けると、目の前で大きな腹がゆらゆら揺れていたが、金縛りにあったように動けない。正面だけでなく、その後ろにも横にも妊婦の腹が見えて――目の端にも両隣の大きな腹が映ると――ようやく気づく。ここは見渡す限り妊婦で占められている電車内で、目線を上げると各自大きくなったお腹を揺らしながら直人をにらんでいる。直人は動け動けと縛りを解くように体へ命令すると、ようやく動き出した足がもつれつんのめって倒れてしまう。頭上の腹から胎児が今にも突き破って出てくると思い、焦る。ひらひらと目の前に蜘蛛の糸のような白く細い手がさしのべられ顔をあげる。紗英だと思ったが早妃のようにも見えて、どちらかわからない。その彼女にトイレはどこか聞く。相手は答えず、直人は夢を見ているのだなと半ば覚醒する。
 直人が起きて階下のトイレに向かうと、洗濯機が回る音とまな板をたたく包丁の音が聞こえてくる。寝ぼけた頭で台所をのぞくと母の背中が見える。振り返ると紗英で、おはよう、もう起きたの? と声をかけてくる。ああ、トイレ。もう少し寝てなさいよ。うん。
 ベッドに戻り、スマホでピアノとギターだけのインスト曲を小さくかけ、うつらうつらしながら昔この部屋で過ごした朝を思い出す。主に小学生のとき。朝は苦手ではなかった。母に呼ばれるまでの薄ぼんやりとした時間が好きだった。夢の痕跡がまだ身体にあるが、もうどんな夢だったか忘れ始めている。気分としての夢が尾を引いている時間。母の声で夢と現実との境目は打ち切られるが、その頃にはお腹は空いていた。嫌々起きるふりをしていた。そんな回想の矢先、直人ご飯だよーという声が耳に飛び込んでくる。昨夜義男を責めたのだと自分を締め直す。
 カウンターには弁当の用意がされていた。つやつやの人参を甘く炒めたものとゴマがかかったほうれん草の煮浸しがある、と気づく。直人もそれがシンプルで好きだった。
 食卓にはそれぞれの味噌汁、ご飯、目玉焼きとベーコンのほかに大ぶりに切った桃もガラスの器によそってあった。
 テレビでは天気予報が映っていた。昼から雨が降るところがあるという。紗英が直人のほうを向く。
「夕飯、何がいい?」
「まだいいでしょ」
「お昼はそうめんあるし、そばもある」
 一足先にごはんを食べ終えた義男がフォークで桃を刺して口元に運ぶも果汁がぼたぼたとあふれ、右腕の内側を伝ってひじの裏側のくぼみまでつーっと垂れていく。隣に座る紗英がしょうがないなと言った感じで嘆息しながら、寄せ合った人差し指から薬指でそのだらしなく垂れた果汁をすくい取り口元に運ぶ。直人は紗英の慣れた様子、義男の直人を意識した羞恥心に腹が立ち大きな声を出す。やめろよそんなこと。何急に。父親だぞ。だって、お父さん食べるの下手だから。紗英は唇をぬらぬらさせて笑う。直人は二人に嫌悪感を向けて言い放った。気持ち悪い、気持ち悪いよ二人。義男はちょっとべたべたしすぎだなとか口ごもりながら、そそくさと家を出ていく。色鮮やかなたっぷりと愛情のこもった弁当を持って。

 桃にフォークがぶすっと刺さる。直人は不愉快そうに桃を口に入れる。自分の先ほどの反応は過剰だったかと振り返る。正常のラインがわからない、というより自信がない。二十一歳の娘が父親の腕に垂れた汁をすくいとってなめるのは、自分の感性では気持ち悪かった。が、よくわからない。仲が良ければありなのだろうか。母のように紗英が振る舞うのに過敏になっているから、思わず怒鳴ってしまったのか。それにあれは怒鳴ったうちに入るだろうか。怒鳴ることなんか人生でなかったから尺度がない。果汁がテーブルの上に垂れてしまう。
 紗英が台所から戻ってきて、カウンターにおいてあるポットに電源を入れる。
「コーヒー飲む?」
「いらない」
「まだ怒ってんの?」
「おかしいだろ」
「じゃあ買い物行こ、なんか買ってあげる」
「だからなんだよその感じ」
「だってお父さんのシャツじゃ嫌でしょ」
 確かに今、直人が着ていた沈んだ藍色のポロシャツは義男のものだった。いまさら衝動的に家を出たのを後悔する。
「墓行くだけだからいいよ」
「暑いよ、ちょっと涼しくなってからにしたら」
 直人は立ち上がり、どすどすと歩いて居間を出る。ポットのお湯がボコボコと沸騰している。

 駅近くにありながら豊かな木々が生い茂る谷中霊園は、広大な敷地を有しているためランニングにも適していたが、今朝は酷暑ゆえか人の影という影が消え去り、ただ無数の墓石とわずかに歩く者の背中を焼く場と化している。
 直人は真新しい花を花瓶に挿し、墓石に水をかけ、線香に火をつけ手を合わせる。その一連の所作は思春期の青年のようにぶっきらぼうだ。何を祈ればいいのだろうと彼はいつも思う。霊というものの存在を信じているかと問われれば、否定的だ。結果、早妃が亡くなる前のことがいつも脳裏をよぎる。
 直人がまだ十三歳であったある日の夕飯のあと、話があると早妃から呼び止められた。離婚かもしれないとなんとなしに思った。特に夫婦仲が悪いようには見えなかったが。
 食卓が片づきお茶が出され夫婦と直人が席につく。早妃から切り出されたのは、自分のお腹の中には赤ちゃんがいるという話であった。静かに驚いたがあまり現実感はなかった。
「いいかな、産んでも」早妃は聞いてきた。
「……いいんじゃない?」早妃と義男はほっとしたような顔になる。
「あんまね、年が離れてるといろいろ」
「俺がいいとかじゃないでしょ」
「そうね。しばらくは、お母さん赤ちゃんにかかりっきりになるから、何なのって思うかもしれないけど」
「思わないよ」
「そうね。お父さんも今回がんばってくれて」
 義男を見ると気まずそうな顔をしている。あとから考えると早妃は産めるという喜びから饒舌になっていたのではと直人は思う。
「もういい?」
「うん、ありがとう」
 直人は自室に帰る。特に兄になることなど考えなかった。もう少し小さいときならともかく、すぐテレビでも見たのではないかと思う。出産についての知識も関心もなさすぎた。
 突如、見ていた番組が有無を言わせず変えられたように場面が病室に変わり紗英の泣き声が聞こえてくる。続いて、義男が抱えている赤ん坊をそっと受け取る画、ベッドに横たわる早妃の顔に白い布がかけられている画が点滅する。あっけなかった。生と死がこんなにも入れ替わるように起こり、それを遅れて受け止めることしかできない。直人は母と最後にした会話を覚えていない。数日前まで家にいて、いつもと同じように過ごしていた。特に気を使うでもなく。いつものように母の料理を食べ、いや、義男はそこそこ協力していたが、自分は義男の料理を嫌っていたので結局早妃がつくることが多かった。手伝うことなく、産まれてくる子を楽しみにする言葉も伝えられぬまま逝かせてしまった。
 砂利を踏む音がして目を開けると、墓の裏から紗英が現れた。家で見るよりじとっとして、それこそ何か憑いてるようにどこか陰惨な気配をまとっている。直人は驚き桶を倒し、墓前に水が広がっていく。
「ごめんごめん」
「なんなんだよ」直人は桶を戻そうとしゃがむ。紗英もしゃがんでひしゃくを拾い聞いてくる。
「お母さんに見えた?」紗英は目を直人から逸らさぬまま悠然とひしゃくを桶に入れる。直人は立ち上がり、いらいらして言った。
「気持ち悪い、なんで真似するの」
「お母さんの方のおじいちゃんとおばあちゃん、全然会ってないでしょ」
 早妃が亡くなってから、次第にそちらの家族とは疎遠になっていた。
「私、時々会ってる。そのときね、早妃って呼ばれてる」
「なにやってんだよ」
「でも、間違いを直したら幸せかな?」
 直人は母方の祖父母の顔さえ浮かばなかった。紗英はゆっくりと立ち上がる。
「あとね、夢を見るようになったの、お母さんの」
「夢?」
「毎月、排卵日が近づくと夢を見る。お父さんと直人と暮らしていたころのお母さんになった夢」
「何それ」
「その日々を忘れないように日記に書いてる」
「何言ってんの」
「夢でお母さんとつながってる」
「もういいよ」直人は叫びだしたい気分だった。これ以上トラブルは抱えたくない。いったい妹をどこにつれていけばいい。
「そんなの誰も望んでないから」
「ほんとに?」
「変えよう、いまの暮らし」
 ふいに紗英がひしゃくを手に取り、早妃の墓に頭から水を飲ませる。
「直人が産まれた日ね、雪が降りそうなほど寒い日で、こたつに入ってみかんの皮をむいていたの」
 突然の冬に直人は目がくらみ、水が滅法冷たそうに感じる。紗英は線香をあげながら一息で語る。
「夕方、みかんを二つに割って、一房食べたとき、お腹が割れるように痛んだ。いままでのどれとも違う痛さで、思わずみかんの汁がぴゅっと口から出ちゃった。でも、陣痛がどうかわからないから、我慢してみかんの皮をむきながら痛みがおさまるのを待ったの。おさまったら一房ぱくっと食べる。でも三つ食べたら我慢できなくて病院に電話したの」
「だからお父さんに聞いたんでしょ」
「昔この話したら、直人は痛くしてごめんねって言ってくれたよね。お母さんはなおは優しいねと言ったでしょ」
「……紗英はお母さんのこと知らない」
「知ってるよ」
「知らないよ」
 ひるまず、紗英は振り返って言う。
「お母さん生きてるよ」
 直人は顔をそむけ、歩き出す。話を聞いていたら危険だと察知した。まずは自分の安心だ、健康だ。そのために帰ってきたのに。なぜ自分の周りはまともな人がいないのだろう。彼が振り返らずに眉間を抑えながら足早に霊園を抜ける様子を猫が木陰から見ていた。 

 直人はどこへ行くでもなく急ぎ足で坂をくだる。自分も夢を見る。熟睡できるタイプではない。二度寝する朝方に見る。そのときの夢は最近の事柄や高校時代まで多岐にわたるが、誰かの経験をそのまま見るなんてことはない。無秩序で断片的で意味不明なものが多い。今朝もそうだ。かつての心残りが反映されてと思うものが多いが、特に分析せずその場をやり過ごす。妹の話は母と接点がなかったがゆえの願望の投影だし、父親と長きに渡り暮らしてきて聞いたエピソードが夢に現れるのだろう。
 坂を下りきると、全生庵の前にいた。見ると、屋内で毎年開催されている幽霊画の展示をしているらしい。直人は実家にいたとき、幾度か見に入った。ふらふらと、涼みに入ることにした。
 入り口で線香の強い香りを嗅ぐと、直人は記憶のひだをまさぐられる心地がした。入館料を払い中に入ると、壁面に数々の幽霊画が並んでいるのが見渡せる。
 数人の女性客がいた。すぐにショートカットの女性が直人は気になる。昔からショートカットの子を好きになったが、好かれたことはない。大学のときに、ああいう子――背は160はあるだろう。ブランドものではなさそうなモノトーンの服装。色白で腕と足もすらっとして、顔の各パーツのバランスは素晴らしいが表情は乏しく、どこか上質な塩を思わせる存在感。素足で人の顔面を踏むことを躊躇しなそうな――を好きになったがまったく相手にされず、一時期学内で尾けてしまったことがある。
 直人はその女性が気になりつつ、展示に目を移していく。描かれた幽霊の色味の薄さと存在感の強さにギャップを感じる。妄執、喪失、奇怪、静寂、長い黒髪と雪色の白装束、血の気のない顔色と噴出する血。幽霊だからこそ淡い筆致で、足元などは描かれていないものもあるが、人間よりも確かに存在している気がしてしまう。人間は数が多い。SNSもあり、似た人間が可視化されすぎている。人間はインフレを起こしている。今時、一人一人の実在感なんてない。幽霊画の幽霊は主張があるものも、そうでもなさそうにたゆたっているものもあるが、希少な存在として確かにそこにいる。
 直人は一枚の絵の前で立ちどまる。『枕元の幽霊』と題された作品で、右下に描かれた白い枕の反対側に幽霊がいる。夜の荒れた海のような髪をして、卵形の輪郭の顔には両目の上に染みがいくつもついたコブがあり、口元は黒く点描されている。お歯黒なのかそれともただ歯が汚いのかはわからない。その幽霊は枕元をじっと見つめている。おそらく、先ほどの紗英の話を聞いたからこそ、この絵が気になるのだろうと彼は自己分析する。整っていない髪が自分を思わせた。自分もこの幽霊も陰険で気持ち悪い。
 ゆっくり三十分ほどだらだらと幽霊画を見ながら、ショートカットの女性が立ち去るのを見送った。こういうとき話したい気持ちはあれど、なんと声をかけたらいいかわからない。永遠にこの距離は埋まらないのだと思う。
 直人は行く場所を失い、無意味に寺の裏に回る。階段の上に何やら有名人の墓があると表示されているが、登る気はしない。突き刺すような暑さだ。
 次に古本屋をいくつか巡り、なんとなしに映画のパンフをたぐる。明らかに現実逃避をしていると直人は意識する。映画をしばらく見ていない。大学時代は映画サークルに一時期所属して脚本を書いていたが、制作過程で監督ともめてほとほと嫌になってしまった。現場で自分が書いた脚本を勝手に改変されるのを見て陰鬱になり、学内ストーカー癖にも悩みパニック障害になり、三年になる前にサークルを辞め、病状が落ち着き始めると図書館司書の資格を得るために動き出したものの、社会人になってから良い映画を見るとどこかに置き忘れた思いが発火するのを感じなかなか家に帰れなくなり、つまらない映画を見るとなぜこんな脚本が通っているのだと怒りを鎮めるために長く歩いた。
 直人は空腹を感じ、商店街に向かう。よく通っていたラーメン屋に行列ができていたので、あまり観光客が歩かない通りにある中華屋に行く。
 店に入るとおかみさんが座ってタバコを吸っており、直人はそのやる気のなさにほっとする。カウンターの奥に座り、レバニラ炒めのセットを注文する。セットには小鉢がついており、おかみさんが次々と目の前の台に乗せてくる。じゃがいもが大きい肉じゃが。かつおぶしがたっぷり乗った青菜。きゅうりとだいこんのお新香。甘く煮たカボチャととうがらしで炒めたレンコン。パイナップル四切れ。それに味噌汁とごはんもついてくる。この実家に帰ってきたような品目と味つけに、母ではなく、なぜか父の料理を思い出してしまう。早妃が亡くなった当初、義男は料理本を見て調理したのだが、食材に余計な一品を加えて味を落としたり、器と料理がちぐはぐで不味そうに見えたりと、致命的に料理のセンスがなかった。だから運動会とか遠足の日、紗英は父親の弁当を嫌がり、父方の祖母がかり出されていた。朝から揚げ物をする祖母の姿を覚えている。その祖父母も、紗英が高校の頃に相次いで亡くなった。でも、紗英が母の方の祖父母と密かに交流を続けていたとは。それはつまりぼけているのだろうか。それともそういうゲームとして、演劇として、早妃ということにして接しているのだろうか。どちらにせよ二人にとって孫が来るより娘が来ることのほうが幸福なのか。台の上にレバニラ炒めがのせられる。レバーは大きく肉厚で四角に切られており、赤ピーマンも入り鮮やかで食欲が湧いてくる。一口頬張ると甘みがあり酒がたっぷり入っていると感じる。
 自宅に帰るのがいいのだろうか。紗英と義男をあの状態のままおいていいものか。高校のとき紗英は友達とよくカラオケへ行っていたし、アイスクリーム屋でアルバイトもしていた。それなりに人間関係があったが、今はどうなのだろう。
 満足して食べ終わると、足が自然とかつて母から出産時の話を聞いた喫茶店に向かう。店内は甘いストリングスがバックの女性ヴォーカルがかかっていた。二階の座布団に座りコーヒーを注文する。考えなくては。帰るべきか。あるいはもっと遠くへ。スマホで検索すると、関西のほうにシェルターがある。まずは自分の安心だろう。いや、遠くに行ったとして来週からの仕事はどうする。休むためには何か言わなくてはいけない。しばらく休むとすると……それを考えると途方もなく気が重い。いつも現実に阻まれる。今は特に呼吸が浅い思考をして心には焦りが張りついている。奥の席に親子連れが座る。あのとき母もコーヒーを飲んでいたか。メニューをみる。もしくはルシアンだったかもしれない。自分はあんみつを食べたはずだ。痛くしてごめんねと言ったのか。言ったかもしれない。なおは優しいねと本当に言われたのか。小さいころはなおと呼ばれていた。そのあと、自分は児童書を読み、母は翻訳物の小説を開いていたかなどと記憶にまどろんでいると、窓の外を雨粒が通る。
 洗濯物のことを思い出す。紗英が取り込んでいるだろうか。雨が降ると取り込まなければいけないという動きが身体に刻まれていた。
 実家に着くと、洗濯物は一階のベランダに堂々と干されたままであった。衣服を触り、これはやり直しだなと直人は思う。ひさしはあっても斜めに降りしきる雨によってびっしょり濡れている。
 急いで次々に洗濯物を取り込む。やることが決まっていると安定した。何も考えずそれに従事すればよい。が、突然ぬっと赤い傘が塀の向こう側に現れ、やっぱここかという声がする。視線を通りに向けると、妻の麻理子が直人を見ていた。直人は心臓がびくんとなり、まだぬれている靴下を残して窓を閉める。自分は何を考えていたのだろう。誰も知らないところにさっさと行っていたら。もう遅かった。ピンポーン、ピンポーンとチャイムの音が耳に粘りつく。続いてドアを痙攣的に短く叩く音。ドドドドドドドド。ドドドドドドドドド。雨なんだけど。なんで濡れてるのわたし。直人は急いでドアを開けようと思うが玄関前に立ち尽くす。開けないと余計ひどいとわかってる。が、体も頭も重かった。直人は玄関に腰掛けてしまう。ピンポーン、ドドドドドドドドド。早く、めんどくさいし。わざわざ来てるんだけど。なに、今なに待ち? 早く開けろって。お前ほんと家帰ったらわかってるよな。麻理子は自分の感情に没頭し、周囲の目も中に家族がいる可能性も遮断して、ドアノブを引き抜く勢いで回し続ける。ドドドドド。マジでお前さあ、死ねよ。
 直人がしばし硬直していると、あ、お久しぶりです~というまろやかな声が雨と麻理子の声に被さる。
「家にいらしてくれたんですか」
「ああ、迎えにきて」
「あ~わざわざすみません」
「いえ」
「久しぶりなんでもう少しいてほしいなーなんて」
「あ、でも迎えにきたんで」
「雨ですし、あがりません?」
「いや、もう帰ります」
「それは残念」
「開けてもらえますか?」
「ごめんなさい、さっきからこっそり見てたんですけど、今ケンカしてるんですか?」
「いや、出てこないので」
「えー、なんででしょうね」
「こっちが聞きたいですよ」
「家族としては仲良くしてもらえたらうれしいなあなんて」
「ええ、だからね」麻理子はため息まじりでいらだつ。
「あ、こないだはじめて知ったんですけど」
「はい?」紗英はいかにも秘密だといった様子で告げる。
「女性が加害者のDVもあるらしいんですよ。怖いですよね~」
 直人はこれ以上聞けないと思い、二階にあがる。動悸が激しい。自室に入り、ベッドに倒れる。言葉が頭にへばりついて離れない。大きな目をして童顔であることを誇る麻理子が顔を歪め叫ぶあの様も思い浮かぶ。落ち着かず、起き上がると、紗英の声が頭の中でこだまする。声が言葉をたぐりよせ、時間をさかのぼる。昼間に聞いた紗英の夢日記のことを思い出した。  
 見たかった、本当にそんな夢を見るのか。紗英の部屋に入ってしまう。自分はいま少し、錯乱していると直人は思う。そう思えているうちは大丈夫だと思う。机の上に黒くて厚いノートがある。直人は一瞬の抵抗のあと、ノートを開き、今を逃れるように早妃と自分や父の交流を読みふける。罪悪感を懐かしさが溶かしていく。時間は消え去り、雨音が聞こえなくなる。確かにあった思い出と、あったかもしれない思い出に胸が詰まり、半分ほど読むと自室に戻りベッドに倒れた。 

 直人、お風呂沸いたから入っちゃいなさいという声が下から聞こえ、直人はむくりと起き上がる。部屋は暗い。さっきまで何をしていたか……日記だ。あれは、早妃の日々を備忘録的に書きつけたものに読めた。しかし、自分が夢をみるときと同じように、時制も飛び飛びで通時的に納得するのは難しい。五歳の直人が自転車の練習をしたことが書いてあると思いきや、直後に十歳の直人からティッシュでつくった鳥の物語を聞かされた話が書いてある。無数の小さな日々の記録。もっとも驚いたのは直人が八歳のころに流産したと書かれていたことだった。知らなかった。あれは本当だろうか。ただそれが事実だとすると、紗英と年齢が離れている理由に納得ができた。
 直人は言われるまま風呂に入ることに抵抗はなかった。入らなかったら自分を呼びに来るだろう。そのとき、どんな顔をすればいいのか。
 鏡にシャワーをかけて見る。洗っても洗っても自分の顔に貼りついた恥の痕跡が落とせない。結果、長いこと湯船に浸かった。体中がふやけるほど、何も考えず、水だけ欲するようになるまで。どうせ自分には危機を脱する方法など考えられる力はない。こうなった以上、何もかも正直に話してしまうのがいいと思う。
 浴室を出ると真新しい下着と量販店で買ったような薄手のパジャマとタオルが置いてあった。そういえば、自分では何も用意せず風呂場にきたのだった。洗面所の鏡に映る赤い体を見る。夏になると体中に湿疹が出る。汚いから見せるなと麻理子は言う。そういえば、今年はまだ皮膚科に行ってなかった。戸棚の下には持ち手が湾曲したままのドライヤーがまだある。早妃が生きていたころから使っていた。うるさいドライヤーと直人は呼んでいた。短い髪をうるさく乾かす。手で乱暴に髪をとかす。こんなもんだ。ひどい直毛で髪もうまくまとめられない。ダサい髪と麻理子は鼻で笑う。一緒に歩きたくないから先歩いてよ。うるさいドライヤーだと直人は思う。投げつけて鏡を割りたくなる。そんなことはしない。反抗期じゃないんだから。髪は一向に乱れたままだ。バスタオルを乱暴に首に巻き付け、風呂場から出た。
 居間に入ると、紗英がテレビを見ながらビールを飲んでいた。それを通り越して、窓を開けてタオルを干す。直人もすっかり飲みたくなっていた。戻るなり、飲む? と紗英が聞いてくる。うん。グラスも冷やしてあるからと紗英は冷蔵庫に取りに行く。枝豆と冷奴があった。ドリア今焼いてると紗英はグラスを渡しながら言う。和洋折衷のメニューだが、この家ではよくある。ドリアは義男がいない夜、季節に関係なく母がよくつくった。あ、少し服買ってきたから、部屋に置いといたよ。ああ、ありがとう。
 缶ビールを注ぐ紗英に直人は何といったらいいか迷った末お疲れさまと言った。本当にお疲れさまだよと紗英は笑った。
 直人は一気にグラスを飲み干す。ビールの冷えた苦みがのどに心地よかった。再びグラスにビールが注がれる。それをまた直人はゴクゴクと勢いよく飲む。なにか言わなければいけないと直人は思う。紗英もそれを待っている気配がある。テレビが騒いでいた。枝豆に手が伸びる。
 沈黙のあと、紗英が口火を切った。
「もっと早く、帰ってこられなかったの?」
「それはまあ、帰るなって」
「止められてたの?」
「でも従ったのは俺だから」
「……殺してやりたい」
 直人はまた思わずビールを飲む。昔、いじめのニュースなどで被害者の少年が自殺したという報道を見たとき、母は決まって「もし直人が死んだら絶対犯人を殺しに行く」と物騒なことを言っていた。紗英は悔しそうに嘆く。「運が悪かったんだよね」
「……最初はうまくいってたんだよ」
「だからって、つらかったでしょう」
 直人は胸がわさわさして涙腺がどっとゆるんだ。泣いたらみっともないと思うが、涙はすでに目にたまり潤んでしまっている。
「健康であればさ、ほんと何でもいいと思うんだよね」と紗英も鼻を手の指でこすり、視線を上下させながら続ける。
「私もお母さんといっしょになったんだと思えば、自分のせいじゃないって思える。ずるいでしょ」
 その言葉の終わり、二人の視線がぎゅっと絡み合う。直人の涙があふれる。どこか今の自分が母の目に映し出された気がした。紗英は嗚咽している直人の後ろにまわり、背中をさする。母からよくこうしてもらっていた。小さいころはつまらないことでよく泣く子どもだったのだ。それが段々と異性を気にしてそういうことはなくなったし、妹が生まれたあとは兄として妙に自覚が生まれて涙を見せることはなくなった。
 オーブンが止まる音がした。お腹空いたでしょと紗英が背中をぽんぽんと叩く。少し落ち着いた直人の前に小さな取っ手がある薄茶色の皿に入ったドリアが差し出された。焦げたチーズがぼこぼこと動いている。そのパリパリにスプーンを落とすと、中からあつあつの乳白色のクリームソースがたっぷりと絡んだエビやイカ、小さなアサリが現れる。その下のごはんと混ぜ合わせてふーふーしながら食べる。母と二人のときの味だった。直人は食べて、時間をさかのぼる。紗英が、母が見つめていた。直人は見つめられるのを意識しながら一心不乱に食べる。舌をやけどする。ゆっくり食べなさいと彼女が言う。食べながらだんだんと、直人は口にし出す。いやー、しんどかった。家では座れなかったんだよね、あれこれ言われて。反省文とか書かされたし。あと、昨日変な服じゃなかった? 服とかもね勝手に捨てられるんだよね。言葉にすると情けなさが後ろから襲いかかってくる。こんなに恥ずかしい人間いるか? 必要か? なぜ死ななかったのだろう。自分にこんな兄がいたら嫌だと思う。ゆっくりでいいよ、ゆっくりと紗英はささやく。今じゃなくていい、甘えていい、今はおいしくて熱いものをゆっくり味わえばいい。直人はドリアを食べて過去を味わい、子どもの舌になった。
 けれどもクリームソースがなくなるにつれ、直人は現在の時間が戻ってくるのを感じる。自分に冷めてくる。現在はどうしてこんなに味気ないんだろう。紗英も大人の直人に噛んで含めるようにこれだけはと言った様子で口にする。やっぱDVだったんじゃないかな。
 直人は凍結させていたその言葉が解凍されるのを感じた。


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