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短編小説『誰のですか?』

 起きる前から聞こえていた。マンションのどこかで赤ん坊が泣き叫ぶ声が。
 スマホを見るとまだ5時で、いつものようにトイレに立つ。
 いつからか、朝方尿意がして起きるようになってしまった。まだ40前なのにか、もう40前だからか。
 寝室に戻る。まだずっと泣いている。親は泣きやませる努力をしているんだろうか。彼は妻が起きないよう願う。
 不妊治療をしてもう長い。もう4年か5年か。そろそろ現実的に養子のことも考えようと口走ろうものなら、わたしの子どもじゃないと静かだが怒りを込めた声で応える。あの声が聞きたくなくて、話が毎度進まない。
 もう最近は赤ん坊や子どもの声を聞くのが、姿を見るのが苦痛になっている。特に夫婦でいるときに訪れる気まずい沈黙、重い砂袋を背負ったような時間、突然泣きはじめる妻。世の子どもたちの存在が生活を圧している。
 ふと、泣き声に女の声が混ざっていることに気づく。なんと言っているかは聞こえない。下の階から聞こえてくる気がする。耳障りだ、朝から。鼻の頭をかいてしまう。時折かきすぎて、皮膚も破いてしまうのに。
 実際、不妊治療なんか金持ちがするもので、貯金なんかできずにいる。ビジネスホテルで働く夫と看護師の妻の薄給で手をつけるものじゃない。最初が肝心だった。夫婦生活自体もそうで、イニシアチブを握れていたらこんなことにならなかった。時折無性に腹が立ち、仕事のストレスも重なると、子どものための資金に手をつけてしまうことを許している。長い間セックスが苦痛で久しいのだから、これくらい当然だと思う。不倫してるわけでもない。
 親子が1階上にあがったのだろうか。女の声が宵闇から浮かび上がるようにわずかに聞こえてきた。
 「この赤ん坊、誰のですか?」
たしかに、そう聞こえた。どういう状況だ。自分の子じゃないのか。じゃあお前は誰だ? なぜ赤ん坊をつれている?
 「この赤ん坊、誰のですか?」
 また、そう聞こえた。女が、どこの誰とも知らぬ女がその不穏な言葉を発しながら歩いているのだろうか。なにをこんな朝早くから。誰のですかって、知らない子どもを抱えて。
 「この赤ん坊、誰のですか?」
 生気がない声。高いが抑揚がない。気持ち悪い。年齢もよくわからない。若くはないが、中年でもない気がする。赤ん坊の泣き声はますます大きい。高く突き刺すような。嫌なのだろうか。嫌だろう、他人に抱き抱えられているのは。
 「この赤ん坊、誰のですか?」
 というか、これは現実か? 身体は自由に動く。一度起きたあとは、夢をよく見るし、どことなく夢が混じっているように思う。いや、トイレに立ったのだった。夢ではない。
 「この赤ん坊、誰のですか?」
 声が明瞭になった。おそらく、ひとつ上の階にあがったのだ。察するに、2階か3階下。ひやりとした。このままいくと、ここ5階まであがってくるのでは。
 「この赤ん坊、誰のですか?」
 いや、だとしてもやり過ごせばいい。おそらく頭がおかしくなった女が団地にいて、育児ノイローゼだろう。それで朝から歩き回っているのだ。
 「この赤ん坊、誰のですか?」
 知らないよ。布団を被る。2時間あとには起きなくてはいけない。朝からいつものように満員電車に乗らなくてはいけない。バイトの子と朝は2人で外国人団体客のチェックインをこなさなければいけない。
 「この赤ん坊、誰のですか?」
 うるさい、黙れ。こんな時間に。
 急にベッドがきしむ音がすると、目の前に覆い被るような視線を感じる。目を開けると、妻が目を大きく見開き、口元に人差し指を立てていた。そして、聞こえない? とささやく。
 「この赤ん坊、誰のですか?」
 また大きくなった気がする。おそらくひとつ下の階とおぼしき音量、声の反響だ。
 妻は聞こえるよね? と無表情で語りかけ、そっと彼の横に寝そべり顔を向けてくる。
ーー聞こえるけど。
ーー赤ちゃんずっと泣いてるの。
ーーああ、でも。
ーーでも?
ーー誰のですかって気持ち悪いよ。
 無責任な親、と憎しみを込めて妻はもらす。
 「この赤ん坊、誰のですか?」
 誰のですか? って呼んでる女の人はなんなのと妻に聞く。お母さん捜してるんでしょ。こんな時間に? ちょっと頭おかしくなってるんじゃないか? 子ども置き去りにしてる親のほうがおかしいでしょ。
 「この赤ん坊、誰のですか?」
 明らかに外の女はおかしいが、どうやら妻は女に同情ないし荷担する気でいる。
 寒くないかな、赤ちゃん。お腹空いてるんじゃない? あ、オムツかもと妻は口々に赤ん坊の身を案じだす。あんなずっと泣いてるなんて。
 「この赤ん坊、誰のですか?」
 でもさ、あの女の人、変じゃない? え? いや、変でしょ、この状態、人の子を朝から探すって。妻は起きあがる。赤ん坊が放っておかれるほうが変でしょ、なにいってるの。
 妻の目を見て、これ以上反対しないほうがいいと思う。が、あの呼び声にこたえてはほしくない。まずいことが起きる気がしてならない。
 「この赤ん坊、誰のですか?」
 声が明らかに近い。この階にきたのだ。奥のエレベーター前の家から呼びかけているとしたら、1つ1つ部屋に呼びかけてるとしたら、3回あとに家にくる。
 妻は起き上がり、ガウンを着始める。
 え、どうする気? 赤ちゃん、心配だから。え? でもうちの子じゃないし。重苦しい空気が充満する。わかっているが言わずにはいられなかった。
 突然、妻は重みに耐えられないようにひざから崩れ落ちた。起き上がって抱き寄せると震えながら言う。
 さっきも夢で見たの、赤ちゃん抱いてる夢。でも……夢なんでしょ? 妻は応えず、うつろに何やら繰り返す。こっちまで落ち着かない。
 ノイローゼ気味ではあった。が、正気を失うほどではなかった。今も失ってはおらず、この状況が橋の上を歩かせている。
 「この赤ん坊、誰のですか?」
 また近づいた。それに声の前にチャイムの音がした。一軒一軒、チャイムを押しているのか。
 妻が立ち上がり、ふらっと部屋を出ようとする。どこ行くの? と呼びかけ、彼女のあとを追う。妻は引き寄せられるように玄関に向かうので、後ろから抱きしめて止める。
 出ちゃだめだって。なんで。危ないから。え? やばい人だから。うちの子が。妻の正面に回り込む。肩をつかむ。うちに子どもはいないだろ、と2人の間の酸素を薄くする言葉をはく。すると、妻は自分を見上げ、欲しくないんでしょと苦々しい顔で言う。いや、そんなわけないだろ。欲しくないんだ。欲しいよ。欲しくないから欲しがらないんだ。え? チャイムの音が聞こえる。
 「この赤ん坊、誰のですか?」
 隣の家だ。妻は玄関に向かおうとするが身体で防ぐ。だめだって。あなた欲しくないんでしょ。欲しくないわけないだろ。知ってんだからね、といったん身体を引き妻は口走る。なにを? 赤ちゃんのお金、つかってること。え? わたしができないから、わたしとしたくないからと妻は眼前で叫ぶ。
 チャイムが鳴った。
 妻は俊敏に姿勢を屈めて自分の門を突き破り、ドアに向かう。
 「この赤ん坊、誰のですか?」
 妻は鍵を開ける。彼女を羽交い締めにしてドアから引き離そうとするが、猛然と押し開けて自分は尻餅をついてしまう。
 開け放たれたドアの向こうに赤ん坊が四つん這いでいた。上半身裸でオムツをしている。すぐさま妻が包み込むように抱きかかえる。
 廊下に出ると、階段の扉を開けて入る女の姿が見えた。その姿を追い、階段を駆け下りる。だが、女との距離が縮まらない。女は1階に着くなり、突如けいれんしたように見上げる。その頬が削り取られたようにこけた顔、かっと見開いた目に射すくめられ、びくっとしてバランスを崩し、踊り場に着地した手をひねってしまう。1階に着くころには、女の姿は夜明けの団地の前から忽然と消えていた。
 帰路につき、家に近づくと、赤ん坊の泣き声がする。重力が重くのしかかる気がしてくる。
 家に入ると、妻は赤ん坊を抱き抱えながら、念願の自分の子を手にした喜びであふれていた。うっとりした顔で赤ん坊をのぞき込んでいる。自分もつられて赤ん坊を見ると、顔のそこかしこにあざがあり、心臓が縮こまってしまう。これは、虐待か? もしかして、この子は捨てられたのではないか?
 自分でも半ば無理だとあきらめながら、しかし義務感を感じ妻に警察に行こうというと、そんな言葉など存在しなかったかのように無視された。その代わりに病院近くのコンビニでミルクとオムツ買ってきてよ、と言われる。なおも警察とか児相と繰り返すと、妻はベランダの窓を乱暴に開け、赤ん坊を高くかかげながら柵まで歩みを進める。そして首だけ振り返り胡乱な声で言う。
ーー落としちゃおっかなー。
 卑怯だと思うより前に怖くなり、わかったわかったからと中に入るよう懇願する。
 そうやって赤ん坊を人質にとった妻にしたがってしまう。赤ん坊のために走ってしまう。ふと立ち止まり、いま警察に一報すればすむのだと思う。だが、仮に警官が来たとして、赤ん坊を妻から奪ったとしたら、どれだけ信頼が毀損されるだろう。もはや関係が修復不可能になるのではないか。
 おとなしくミルクとオムツを買って帰ることにする。
 しかし、世の赤ん坊もそんなものなのだろうか。戻って、ミルクを与えても、おむつを替えても、赤ん坊は泣き続けた。
 それが、朝になり仕事に出て夜帰ってきたあとも続いた。一日中泣きやまないのと妻が言う。泣いたままお風呂に入り、泣いたまま一向に寝ない。妻もその様子に気圧されて、うるさいと怒鳴ってしまう。するとますます赤ん坊は大きくわめき、妻はごめんごめんと謝り続ける。妻も泣く。妻はもはや赤ん坊に操られている。あっという間に家の中心になり、真夜中になってもその小さな口から世界が憎くてたまらないというように、生まれてこなければよかったというように泣き続ける。そうやって家を支配する。妻は疲れ果て、自分が交代を申し出る。この部屋でずっとこの赤ん坊といたのだと思うとぞっとする。
 静かにぐずったり、激しくわめきじたばたしたりするのを永遠と往復していると、自分も赤ん坊が憎ましくなる。憎くて、この赤ん坊を抱いた女も殴ったのだろうか。もうはっきりと赤ん坊なんかいらないと思う。自分の子ではないのだ。今のうちに家から出して……いや、だから自分が勝手にしたら妻は苛なみ続けるのだ。
 そうして脳内をうろついていると、妻は1時間も寝ずに戻ってくる。抱き抱え、泣いている口に口づける。母親は自分だと刻印するように。だがすれ違う。赤ん坊に笑顔は現れない。突然思う。他人だからじゃないのか? 親が自分たちじゃないから嫌がり続けるのではないのか。いや、赤ん坊に親を認知する能力なんかないだろう。この赤ん坊がおかしいのではないか。
 考えるのも嫌で耳栓をして寝込んでしまう。明日も仕事だ、しょうがない。自分は卑怯だから。金にも手をつける。耳栓をしても絞ったような泣き声は聞こえる。でも寝る。疲れている。自分は冷酷な人間でいい。

 起きてもまだ聞こえていた。夢の中にも混入する泣き声。まだ泣いている。トイレに立ち、妻と赤ん坊がいないのを見つけ、震える。ゆっくりと慎重に寝ころぶ。また耳栓をするか。しても、か細く聞こえてきてしまうだろう。
 やがて、ほら聞こえてきた。
 「この赤ん坊、誰のですか?」
                                (了)

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