こに

こういうところに何か書きたいけど、

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最近の記事

優秀な友人たちが「頭悪い人」を口撃し始めた理由についての考察

※あくまで僕個人の周辺における話です。  僕の周りには早慶上智出身の人が多い。みんなそれなりに裕福な家庭で育ち、一度も社会からドロップアウトすることなく、現在まで無事に生きている。見渡せる範囲内では、大手の企業のビジネスパーソンになった人が8割だ。頭の良さと、育ちの良さからか、性格もそこまで過激ではないし、概ね穏やかで付き合いやすい。  ところが、最近、その人たちのSNS(主にTwitter)にちょっとした異変が起こり始めている。  「頭の悪い人」「デマに流されてしまう

    • 大学のサークルから、コミュニティの作り方を考察する。

       近年、オンラインサロンが注目を集めている。お金を払って参加し、そのコミュニティ内で集まったり、何かを議論する。基本的に閉じたコミュニティで、お金を払うというハードルのおかげで、合わない人は事前にスクリーニングにかけられている、という前提だ。会社では、お金をもらうために仕事をするのに、オンラインサロンでは、お金を払って事実上の仕事をすることがままある。  これを見るにつけ、僕は、大学のサークルを思い出す。こちらも、サークル費を払って、自分の時間と労力を投入する。冷静に考えれば

      • 利他の可視化

         あらゆる行動や履歴がデータとして残る時代。利己的な行動は、いずれ衆目に晒される。一見、道徳的に良さそうに見えるが、どんな効果をもたらすのだろうか。  そもそも、人間の道徳感情は、種としてのはみ出しものを罰するシステムだと思われる。民主主義がそれなりにベターだった理由も、このシステムと近しいから。参加者全員がそれぞれ何かを我慢する。それが、集団としての最適解を出す方法だった。  しかし、この方法は古代のような直接民主制でなければ、上手く機能しえなかった。ゆえに、人口増加によっ

        • どちらでもない

          積極的な受身なのか、受身な積極性なのか。 自由意志の問題にも関わってきたりする。あとは、環境がどれだけ当人に影響を及ぼすのかも。 ただ、色んなユニット(括り=環境)に人は属しているし、そのユニットにおける相対的な役割という情報が、その人の一側面である。 そう考えると、環境含め「その人」なのだと思うし、それが全てでもない。積極的な受身と受身な積極性は、分けられない気がする。 そして、当人も周囲の人も分からない。

        優秀な友人たちが「頭悪い人」を口撃し始めた理由についての考察

          自分を責める(安心)について

           自分を責めるのは気持ちの良いことだ。一見、嫌なことのようだけれど、当人は好きでやっている。  じゃあなんで好きなのか。それは、自分が自分を一番責めれば、他の人に責められなくて済むからだ。  求めているのは安心感だ。  自分のことを褒め続けるのは難しい。「世間の目」がそれを許さないし、その目に晒され続けることで、目を無意識に内在化させてしまう。否定しようと思えばなんでも否定できてしまう。「ちょっとだけ、自分を褒めてあげよう」なんて行為も、「甘え」「自己陶酔」とバッサリ切り捨て

          自分を責める(安心)について

          忙しない

           淡々とただやっていることが、実はとても大事だったりする。新聞やらネット記事やら見ても、何かストーリーや「自分を高める」をモチベーションに何かに取り組むことを是とする情報が多い。また、「こうしないとダメ」「これができなかったら負け」みたいな情報も多い。  「自分がなんちゃら」的な言説は、本能に訴えかけてくる。「これに乗り遅れたらみんなから置いていかれる」と。だから、怖いし、どうしても目が行ってしまう。特に、みんなと違うことをダメなことと認識してきた人にとっては。  ただ、思う

          忙しない

          全てフィクションなら物語にしちゃえ

          人生を物語にするのは難しい。できないこともないけれど、本質的に因果関係的なものは存在しないと思うし、それほどドラマティックじゃないと思う。 あくまで、ドラマティックに繋げる人間の作為からしか生まれない。 だから、無理に自分の人生的なものをストーリーにしなくても良いのでは?と思う。 繋げようとすると、一貫性が必要になるし、それだと過去の延長線上にしか未来がなくなってしまう。 ただ、物語が求められるのもわかる。 ストーリーと捉えれば、今の辛い?状況の解釈が変わるかもしれ

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          寝るのほんとに大事

          ここ数ヶ月で一番実感している。寝ないとほんとに死ぬ。 体も死ぬけど、精神も死ぬ。 全ての悪循環の始まりになりかねない。 寝なくても平気なくらい、何かに没頭しているときは特にそう。 頭がハイになっているから、寝てなくても全然大丈夫だったりする。 でも、確実に体にはダメージが蓄積されていて、それが何かの拍子に爆発したりする。 何か一つのことに取り組むとき、寝る間も惜しんだほうがいいみたいなことが言われたりするけど、長い人生トータルで考えたとき、結構よろしくない選択肢だったりする。

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          終わらせること

          上手に物事を終わらせるのは難しい。 終わってしまうと、後出しができないので、あれもこれも付け足したくなる。その逆で、既にやる気がなくなっているから、少しでも楽に終わらせたい場合もある。 いずれにせよ、ベストを出し切って、ゴールのタイミングでちょうど良く終われるものなんて、あんまりないのだと思う。 自分一人でもそうならば、多くの人が関わっていれば、尚のことそうだろう。

          終わらせること

          本当に関係ある?

          言われてみると、そんな気がしてしまう。そんな因果関係って、意外と多い。 それっぽい!と思っても、実はあんまり関係なかったり。 因果をつけると、なぜか妙に落ち着くからなんだと思う。安心感的なもの。 それが世の中の当たり前的な価値観にまで成長すると、もっと厄介だ。 その因果を補強する事物しか見なくなったりするからだ。本当は、全然関係ないこともあったりするのに。 君って、こんな人だよね。 という言葉が人に与える影響の大きさも、ここにあると思う。 だから、怖い。

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          「恥ずかしい」は、ひとり。

           「恥ずかしい」はどこから生まれてくるのだろうか?  誰かを見て思う「恥ずかしい」もあれば、我が身を振り返って悶絶する「恥ずかしい」もある。  しかし、いずれにも共通している点がある。  それは「集団から外れたことをしている」だ。  今、世間は忘年会シーズン真っ盛りだ。路上で騒いでいる集団もよく見る。一見すると「恥ずかしい」。ところが、当事者は意外と恥ずかしいと思わない。「みんな」でやっているからだ。もしかすると「武勇伝」として、思い出の1ページになっているかもしれな

          「恥ずかしい」は、ひとり。

          時間が足りない

          もっと時間をかければ、と思うことが多い。 特に仕事に多い。 落ち着いて、時間をかけて、ゴールを踏まえて取り組みたい。 とはいえ、趣味じゃない。時間という制約がある。 そうなると、人に聞いて動き出した方が早い。それに正確。 自分が出しうるアウトプットを踏まえて 道順を組み立てられるのが、いわゆる「できる子」。 相手の力量を見定めて、道順を組み立てられる(きちんと伝えられる)のが いわゆる「ディレクションの上手な人」。

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          価値観のコト消費

          批評家が多い今日この頃。 「正論」や「普通」に、あたかも物凄いチカラがあるように考えられている。 実はこれも「コト消費」なんだと思う。 モノに自分のアイデンティティを見出せない現代。 それだけ豊かになったのだけど、 今度は「自分の人生=今まで積み重ねられてきた常識」を基に、事実の批評をするコトで、アイデンティティをなんとか保っている。 事実は事態から、事態は複数の物から成り立っている。 そこにどんな因果を結ぶかは、前提となる社会に基づく。 今は、物も

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          名詞から動詞へ

          名詞をつけるのは危ないことだ。 時に思考停止につながる。 本当は、そこには時間の流れがあって、人々の思考や行動の営みがある。 でも、言葉にすると、その本質から遠ざかるからだ。 勿論、言葉にすることで、新しい側面が鋭く見える場合もある。 広告のコピーなどは、商品の本質を炙り出して、言葉にすることで、概念を作り出す。 優れたコピーは新しい概念を作る。 まずいのは、安易に全体像を表すような言葉だ。 ○活、子供部屋おじさん などが最たる例である。 名詞はキャッチーだ。 多く

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          盲点と歓び

          全てを見透かされている。 そう思う友人がいた。高校時代だった。 クラスで目立つタイプではないし、成績優秀でもなかった。 おっとりしていて、余計なことは喋らなかった。 部活も一緒だった。 彼はそんなに強くなかった。 でも、練習はサボらない。 練習も苦手そうだった。 でも、逃げずに淡々とこなしていた。 彼は全てを理解していているような目をしていた。 怖かった。 行きたい大学を見栄で選ぶような自分を見透かされているようで。 常に誰かと比較して、劣等感と優越感を乱高下す

          盲点と歓び

          君ってそうだよね。

          その人を断定する言葉。 それって本当にその人のため? 凡ゆる物事は、そう簡単に断定できない。止むを得ず断定する場合を別として。 君ってそうだよね。こうだよね。 その言葉は大きい。想像以上に。 発した人より受け手の方が。 そもそも、その人、とはなんだろう。 観察の対象ではあるが、その人がまだ死んでいないなら、その人、は完結していない。 ちょっとした傾向のようなものを読み取れるかもしれない程度だ。 では、そういった類の断定を行う人には、どういう意図があるのか。 なんとな

          君ってそうだよね。