「恥ずかしい」は、ひとり。
「恥ずかしい」はどこから生まれてくるのだろうか?
誰かを見て思う「恥ずかしい」もあれば、我が身を振り返って悶絶する「恥ずかしい」もある。
しかし、いずれにも共通している点がある。
それは「集団から外れたことをしている」だ。
今、世間は忘年会シーズン真っ盛りだ。路上で騒いでいる集団もよく見る。一見すると「恥ずかしい」。ところが、当事者は意外と恥ずかしいと思わない。「みんな」でやっているからだ。もしかすると「武勇伝」として、思い出の1ページになっているかもしれない。もちろん、集団の中には、恥ずかしいと思っている人もいるが、そういう人は騒ぎに積極的に参加してはいないだろう。
人間は社会的な生き物だから、そこから逸脱した行為を「恥ずかしい」と思い、自制する。多分、逸脱させないために「恥ずかしい」というシステムが発生したのだろう。
この感情は結構強い。
「人様に見せられない」
「世間体がよろしくない」
など、人の行動に大きくブレーキをかける。
ところが、稀に「恥ずかしい」を乗り越えて行動する人がいる。
物事に良い悪いをつけるのは難しいが、良い意味では、社会を変えるような行動をとる人がいて、悪い意味では、一時期流行った「バカッター」のような行動をとる人がいる。
「集団から外れたこと」をするには、集団をよく知った上で、敢えて別の行動を取るパターンと、集団のことをよく知らない(無知)のパターンがあると考えられる。
前者は「逆張り」とも言い換えられる。社会を変えるような行動を取る人の中には、それなりにこちらのパターンが多いような気がする。後者は言わずもがな。
面白いのは、集団のことをよく知らない(無知)で、ポジティブな変化を起こしてしまう人もいるということ。
バカと天才は紙一重、とはこういう人を指すのだろう。
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