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怖いと思われることの不毛さ

機嫌の悪さを全面に出してきて、他人を支配しようという人は事実として存在します。
※この記事では上記のような人を「奴ら」と表現します。

具体的な対策は「近づかない」が最も有効な手立てです。
が、職場であったり家族であったり、すぐに逃げられない方もいらっしゃることと思います。
私自身はかつて、教祖になりたい系の社長の下で働いたことがあり、いきなりキレる、そしておだてるということを繰り返され、まんまとハマってしまっていた経験があります。
恐怖を与えることは、人間をコントロールするために最も有効かつ卑劣な手段です。
具体的に行動を起こすためにはどのように考えればよいかを綴っていきたいと思います。

なぜ他人をコントロールしたいのか

なぜ、他人をコントロールしたいのでしょうか?
他人をコントロールしようとすることは非常に手間がかかります。
それでもそうしたいと考え、「奴ら」にエネルギーが発生している以上、それは何かしらの欲求に基づいて行動しているのではないか。

結論、他人をコントロールしたいという思いの裏には承認欲求が存在しています。
要は構ってもらいたいんですよね。

褒めてもらいたい、肯定してもらいたい、自分が正しいと思いたい。
人間には本当にいろんな形での承認欲求があります。
しかし、他人からの承認を得ることは難しいものです。
なぜなら、自分以外の人間に興味のある人自体、この世ではかなり希少だからです。

そこで「奴ら」が承認を得るための最初のステップは関心を持ってもらうことになります。
関心を持ってもらうためにはまず、他人の目を自分に向けてもらわなければなりません。
そのために「怒り」という手段を「奴ら」は使うのですね。
怒りを表明するために、

モノにあたる、
声を荒げる、
表情をあからさまに暗くする等、

あらゆる手段で「構ってくれー」とメッセージを発してきます。
迷惑なこと、この上なしです。
そういった「奴ら」に頭を抱えてしまうことは本当に不毛です。

「奴ら」とどう向き合えばよいか。
その怒りに対して、一切反応しないことが正解になります。
声をかけなければならない時にはあくまで「仕事」と思って、接する。
こういう人種は自分が論破されることを、何よりも恐れるタイプです。
こちらに利がある時には毅然と接することは恐れるに及びません。

揚げ足とってキレてくる人たち

それでも、思い出したかのごとく、揚げ足を取ってくることは想定されます。
例えば、進んでいないとわかっていながら、仕事の進捗を尋ねてくる奴がいます。
進んでいないことを詰めて、憂さ晴らしをする目的でこういうことを尋ねてきます。
この場合は、進んでいないことを先に伝えて、ひとまず謝る。
結論から言った方が、詰めポイントが少なくなるためです。
一旦、納期を決め、機嫌のいい時に再度交渉するといった対応が必要になります。
仕事を終わらせるという本来の目的にフォーカスするということです。

事前策として、機嫌のいい時に話を進めることは極めて有効です。
「奴ら」は、承認欲求が強い分、人から嫌われることを恐れます。
「奴ら」は、怒って周りに当たり散らしている自覚があるパターンがあることがほとんどです。
そこで、こちらから話しかけてあげて、あなたのことを嫌いではないですよと嘘でも表明してあげていれば、彼らは割と要求を飲んでくれること多いです。
それをきちんとメモで取っておく(手書きで日付と時間を記載すると確実です)、スケジュールに入れておく(できれば共有をしておく)等の対策をしておけば、いきなりキレてこられることは減ることでしょう。

「奴ら」に対応してあげる価値

そこまでしてあげる必要があるのかと聞かれそうですが、筆者はそこまでしてあげる価値はないと考えています。
やはり、その場から離れるということ以外に抜本的に解決できることはありません。
先述した対策はあくまでも、応急処置・痛み止めといった類にしかなりません。
そもそもそういう怒りで関心を買おうという短絡的な発想しかできない人間に気を遣って幸せなわけありません。
自尊心を少しずつ削り取っているようなものです。
こういう「奴ら」に対しても慈悲の感情を持って、なんとか合わせてあげようとする人の気持ちはわからなくもないのですが、ただ搾取されているだけです。
自分が大切にされているかどうか、この視点で相手を観察すれば、怒りで支配してくるような人と付き合う道理なんか少しもありません。

「怒る・キレる」のメリット

そもそも恐いと思われて何かメリットってあるのかと考えてみました。
結論、自己満足を得られる以外にはないです。
その自己満足と引き換えにするものは周りとの信頼です。
信頼を犠牲にしても良いと考える人にとっては自己満足という感情を得るというメリットがあると筆者は結論づけました。

・・・信頼と引き換えにしてまでほしいものなのだろうか?
シンプルに疑問です。

それでも自己満足を得たいと考えてしまう「奴ら」に対して、時間を使ってあげる、メンタルを消費してあげる価値ってあるのか。
怒りを表明してくるって「頭の悪い行為」以外の何物でもありません。
それに気づかない人種と同じ時間を過ごしても、何も生まれません。
時間を使うのであれば、もっと有意義なものに使って、少しでも幸せになった方が絶対にいいはずです。
今、苦しんでいらっしゃる方は、時間がかかったり、勇気が必要な状況なのかもしれませんが、是が非でもその場から離れて、少し休んでから、再出発してほしいと心から思います。

結論

自分は自分、他人は他人。
これは正解なんてない世界の中でも数少ない真理に近いのではないかと筆者は考えています。
怒りで恐怖を与えてこようとする行為は人の心にノックなしかつ土足で入り込んでくるようなものです。
他人との境界線が引けない人は精神的に未熟な人です。
構ってほしくて、声を上げることは幼稚園児でもやっています。
そこから進歩がないという事実とどう考えるか。

これが怒りで支配しようとしてくる人に対して、向き合うためには一つの指針になるではないかと思います。
恐怖を感じてしまうと、思考が停まってしまい、指示を出されないと動けなくなってしまいます。
そうしているうちに自己肯定感は下がり、自分自身に価値がないのではないかと余計な考えをしてしまいます。
主体的に動いてこそ、仕事や生活は彩りや輝きが出てくるものです。
その主体性を子供の時から成長のない「奴ら」に奪われることなんてあってはならない。

もし、辛い状況にある方は逃げることこそ賢明な選択であると、そう考えてほしいなと心から思います。

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