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三島由紀夫『天人五衰』の風景(1)

「はじめに」はこちら。

1 『天人五衰』における三保松原

 冒頭にも書いたように、『天人五衰』というこの巻の題名は、仏教用語であるが、本文の中では、直接には謡曲『羽衣』から引き出されている。言うまでも無く、その舞台は三保松原である。まず、最初に、この小説の中の三保松原について確認しておこう。
 『天人五衰』本文中で、三保松原への言及は三回しかないので、以下、順を追ってみてみよう。

 最初は、「二」。1970年5月2日、本多が透のいる信号所を見つける経緯の中にある(このときは二人は出会わない)。短いので全文を引用しておく。
たまたま日本平に来て、帰りがけに三保の松原を見物し、西域渡来と思しい天人の羽衣の裂(きれ)などという宝物を見せられたのち、静岡への帰るさ、一人で海辺に佇みたくなった。
後に少し詳しく説明するが、日本平はこの時代、日本を代表する新しい観光地であり、高級ホテルもあって、本多のそもそもの目的地が三保では無く日本平であったのには正当な理由があった。それにしても、羽衣の裂への冷笑的な言及は厳しいし、それが、ある意味「紛い物」扱いされているような表現は興味深い。

 二つ目は、「四」、同じ日の夜、本郷の自宅における本多の夢の中の描写。「昼間見た羽衣の松の影響であろう、夢は天人に関わっていた。」と言い、「三保の松原の空を飛ぶ天人」の描写から始まっている。先に見た「二」では簡単にしか触れていないが、本多が三保で見た物は、夢に見るほど強烈な印象を残した。その実態は、後に慶子と訪れた時の記述で明らかになる。
 この夢で面白いのは、本多の読んだ仏書の知識が「夢にそのまま活かされて」おり、本多は「仏書に書かれていることはやはり本当だったんだと考えて、澄んだ歓喜にひたって」いること、つまり、ここには書物の知識と「(夢の中の)現実」の、ある意味幸福な一致がある。ところが、途中から、天人の中にジン・ジャンや、清顕や、勲の顔を見いだし、夢の時空が混乱してくると、本多は「とめどもない遊行の流動が、耐えがたく、うるさく感じ」るようになり、「見ること」から逃れるように「夢を剝ぎ落として、目をさま」すことになる。
 この夢で、もう一つ、「どこにも人の姿はなく、もし見ている本多がただ一人の人間だとすれば、漁師白龍とは自分のことではないかと思われた。」と言う描写は、記憶にとどめておく必要がある。

 三つ目は、「九」、慶子とともに三保を訪れたときの描写で、いわば初めて、そして唯一、三保松原そのものが描写される。小説の中では正確な日付がわからないが、雨もよいの平日で、「梅雨空の下」ともあることからおおよそ見当がつく。
 少し遡って、慶子を伴って三保を訪れるまでの経緯から確認しておこう。
 「七」でははじめに、『暁の寺』以降の本多と慶子の関係を具体的に紹介し、様々な回想を経て、大使館の晩餐の場面になる。その着席前の会話の中で、慶子が、今、謡で「羽衣」をやっているが三保の松原を見ていないので一緒に行ってほしい、と言い、本多が承諾する。続く「八」は下り新幹線の車中で、謡曲「羽衣」の内容からはじまり、慶子が暗誦する「天人の五衰」という言葉から、本多が質問に答える形で、「天人五衰」の説明に移る。ここでも夢と同じように、本多は仏書を読んでいたのですらすら答えられたというのも興味深い。
 この章では、「天人五衰」の知識に照らした謡曲「羽衣」評として、「天人が、大の五衰の一をすでに現じながら、羽衣を返してもらうとたちまち回復するのは、作者の世阿弥がそれほど仏典に拘泥せずに、美しい衰亡を暗示する詩語として、卒然と使ったものであろう。」とあること、この時点で「本多はいささかも五衰を怖れていなかった。」と言うことも記憶しておこう。

 こうした前段の経緯があって、「九」でいよいよ三保に到着する。文庫版で八頁分になる「九」は丸々三保松原が舞台なので、少し丁寧に見よう。
 まず、「この景勝の地の荒れ果てた俗化のありさまを慶子に見せて、彼女のいい気な浮っ調子の夢想を打ち破ってやろう」という本多が慶子をここに連れてきた「魂胆」が説明される。上で述べたように、本多は、前回の訪問でこの地の悲惨に接して、夢に見るほどの衝撃を受けているのだった。しかし、慶子は傷つかない。ここから先の描写は、例えば空気が良いかどうかといったことを含め、同じ物を見る本多と慶子の認識の違いを繰り返し描写している。ベナレスと比較しつつ「人々の想像上の要望に応じて、サーカスの芸人のように、何万回何十万回となく踊ることを強いられ」る天人に思いをはせる描写も重要だが、先に進もう。この章のクライマックスは、茶店にあった「顔のところだけ穴をあけた記念撮影用の絵看板」である。清水らしく、次郎長とお蝶である。慶子が乗り気になってしまい、やむなく写真を撮られることになった本多は、多くの見物人の眼差しに耐えながら、その見物人たちを覗く視点を獲得する。ここの描写は、直接には本多の覗きを連想させつつ、「海辺にわだかまる巨松が、七五三縄を幹にめぐらしているのは、羽衣の松である。その周囲、そこからここへゆるやかにのぼっている砂の傾斜、いたるところに、大ぜいの見物人たちが配置されている。…………本多は自分の死をじっと見戍っている人たちがそこにいると感じた。」という描写は『春の雪』にある日露戦役の集合写真も彷彿とさせる。
 さて、その「羽衣の松」はどうか。「羽衣の松は四方八方へ蛸のように肢をあげた太い巨松で、枯死寸前の姿だった。幹の裂け目はコンクリートで埋めてあった。見物人たちは、この葉さえ乏しい松のまわりで、口々に戯れあった。」そんな場所でも記念写真を撮る観光客を冷たく見る本多に対して、慶子は「これはこれで結構だわ。私ちっとも絶望しないわ。いくら汚れていたって、いくら死にかけていたって、この松もこの場所も、幻影に捧げられていることは確かなんですもの。却ってお謡の文句みたいに、掃き清められて、夢のように大事にされていたら、嘘みたいじゃなくて? 私、こういうところが、日本的で、さりげなくて、自然だと思うの。やっぱり来てよかったわ」と言う。慶子は「日本的」という雑な評言を、富士吉田の浅間大社でも発して本多たちをがっかりさせているのだが、或る種の俗物趣味を象徴する言葉なのだろう。それにしても、慶子はこの場所が「幻影に捧げられている」ことを認識しているという点で、やはりただ者ではないと言うべきだろう。謡曲「羽衣」が「天人五衰」を美化していることは意識しながら、現実の三保松原、あるいは羽衣の松には幻滅する本多の感覚は、あるべき「美」を前提にした知識人の限界を感じさせる。
 このように、舞台は三保松原であり、謡曲「羽衣」が意識されているとは言え、本多はここに痛く幻滅している。ここで語られているのは、ある意味理想的な日本の滅びの姿と、俗化された「日本的」なる物についての認識、それに、本多の「認識者」としての有りようである。先に登場していた「裂」が予兆であったように、ここは、俗悪な紛い物、「サーカスの芸人のよう」な天人しかいない場所である。

 ところで、三島の「創作ノート」には、三保を訪れた時のメモが記されている。2冊目、6月10日の三保訪問の記述はかなり具体的で、次郎長の顔ハメや、羽衣の松周辺での観光客の会話など、そのまま小説に使われている部分もある。その一方で、全く使われなかった記述も見受けられる。たとえば、今でも有名なエレーヌ・ジュグラリスの碑は文字を書き写していながら使っていない。

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同様に、東郷平八郎の「新三景之碑」、そして、今は別の物になっている富士山の眺望が良いという「鎌ヶ崎」への立札もメモにはあるが使われなかった。これらは、三保の人たちにとって重要であっても、小説の文脈からはノイズにしかならない。更に言えば、国指定名勝の碑のことがメモに書かれていないことからしても、三島はおそらく鎌ヶ崎には行っていない。些細なことだが、小説の中で、三保からの富士山という風景は、季節的な要因もあって、必要なかったのだろう。
 ついでにもう一つ、ノートには、「写真のモデル入水自殺」と言う一文がある。これは前年12月に三保で入水自殺した太田八重子という女性のことらしいが、これもまた小説には直接登場しない。当時相当話題になった事件らしいが、なぜここに書かれているのか、気になるところではある。
参考:【知られざる芸能史】週刊誌記事が原因で自殺を選んだ美人モデル

 さて、これで、『天人五衰』における三保松原の記述の確認は終了した。少し解釈に踏み込んだ部分もあるが、『天人五衰』、乃至『豊饒の海』にとって三保松原とは何か、と言う問題については、もう少し遠回りしてから戻ってくることにしよう。そのためには、三保そのもののイメージの変遷もたどる必要があるだろうし、当面する小説の主要な舞台である駒越についても検証が必要になる。それらは、章を改めて述べることにする。

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