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三島由紀夫『天人五衰』の風景(3)

「暁の寺」の富士

駒越から御殿場へ

このnote「三島由紀夫『天人五衰』の風景」は、『豊饒の海』4部作のうち、最後の作品である『天人五衰』の前半分だけを読んでいるので、通常の読書体験なら疾うに気づいているべきことを見落としている。それは、しかし、ここでの展開としては好都合なこともある。(2.2)の終わりに宿題として書いた、『天人五衰』冒頭部に現れる「乳海攪拌」「三羽の鳥」、そして本多の見た清水港越しの富士山などは、『天人五衰』を独立した作品として読む場合と『暁の寺』から連続して読む場合とでは印象が異なるだろう。転生を軸とする4部作は、それぞれ20年近い間隔が必要なので、作品内の時間は、御殿場の火事が昭和27(1952)年、ジン・ジャンの訃報を知らされる晩餐が昭和42(1967)年、そして、言うまでもなく『天人五衰』冒頭は昭和45(1970)年5月と、ずいぶん時間がたっているのだが、連続して読むと、否応なく、御殿場から清水に、すぐに話が切り替わった印象を受けてしまう。その文脈で読めば、特に本多の見る富士山の意味は重くなるが、『暁の寺』の“記憶”が無い読者にとってはせいぜい「富士山曼荼羅」を想起するだけかもしれない。このパートは、ここまで保留してきた駒越の描写を、あらためて『暁の寺』の御殿場を参照軸に据えることで考え直してみようという試みである。

記憶

「天人五衰」冒頭、誰の語りとも判らず始まる海の描写は、文脈からすれば透のものと考えるほか無いのだけれど、さて、透は何を見たのか。
三羽の鳥が空の高みを、ずっと近づき合ったかと思うと、また不規則に隔たって飛んでゆく。その接近と離隔には、なにがしかの神秘がある。相手の羽風を感じるほどに近づきながら、又、その一羽だけついと遠ざかるときの青い距離は、何を意味するのか。三羽の鳥がそうするように、我々の心の中に時たま現われる似たような三つの思念も?
……
沖に一瞬、一個所だけ、白い翼のように白波が躍り上がって消える。あれには何の意味があるのだろう。崇高な気まぐれでなければ、きわめて重要な合図でなければならないもの。そのどちらでもないということがありうるだろうか。
既に続きを知っている我々は、こうした描写が繰り返されることも、それが、殆ど透にとっての世界そのものだということも解る。しかし、そうした描写が最初に置かれているこの部分は、読者にとって、まだ何物か定まっていない。それどころか、透にとっても未だ「意味」を見いだし得ない何かである。それは、「乳海攪拌」を繰り返し、世界を作り直している神話とのつながり。大きな無意識の記憶かもしれない。
「三羽の鳥」は、直接には天人を連想させやすい。天人と言えば、「四」で本多が見る夢の中に現れる複数の天人たちを透が先に見ているのかもしれない。それは、清顕であり、勲であり、ジン・ジャンである。今は意識に上ってきていない過去の記憶。「時が変幻自在に形を変え、過去世が同時に、同じ空間にあらわれた」のか。
絡み合う三つの時間、だとすれば、それは或いは北欧神話などに登場する「ノルン」を想像することも出来る。転生の物語として「天人五衰」を読んでいる読者と、今、この世界に登場したばかりの透の情報の違いを意識にとどめておくことにしよう。

富士

一方、本多は清水港越しに富士山を見る。この富士は、「暁の寺」を読んだ読者からすれば、別荘炎上の朝、御殿場から見た富士山の記憶と繋がっていなければならない。
溯りすぎるのもこのnoteの趣旨からはずれるので、「暁の寺」第二部の冒頭から改めて見てみよう。
本多が御殿場二ノ岡に別荘地を定めた理由の一つは「丁度真向かいに富士を望む」ことであった。以後、「暁の寺」第二部は、絶えず富士の存在を意識し続けることになる。それは、後に見るように、「夜明けの富士=日本の暁の寺」というかたちで、第一部との、つまりは少女時代のジン・ジャンとの繋がりを暗示する物でもあった。
「暁の寺」第二部に登場する富士の描写については、このnote(0)末尾にリンクしてあるファイルに抄出してあるのでご参照いただきたい。

本多の富士

点々と雪ののこった箱根の的確な稜線に比して、富士は半ば雲に包まれ、はかない気配を見せていた。目の錯覚で、富士が高くもなり低くもなることに本多は気づいていた。(二十三)
具体的な富士の描写の最初、既に本多は「目の錯覚」で富士の見え方が変わることに気づいている。
そして、それは、「端正な伽藍の屋根、日本の暁の寺のすがただった」。
「二十五」の富士の描写はいちいち興味深いので長くなるが引用しておこう。
富士は黎明の紅に染っていた。その薔薇輝石色にかがやく山頂は、まだ夢中の幻を見ているかのように、寝起きの彼の瞳に宿った。それは端正な伽藍の屋根、日本の暁の寺のすがただった。
……
六時二十分、すでに曙の色を払い落とした富士は、三分の二を雪に包まれた鋭敏な美しさで、青空を刳りぬいていた。明晰すぎるほど明晰によく見えた。雪の肌は微妙で敏感な起伏の緊張に充ち、少しも脂肪のない筋肉のこまかい端正な配置を思わせた。裾野を除けば、山頂と宝永山のあたりに、やや赤黒い細い斑らがあるだけだった。一点の雲もなく、石を投げれば石の当たる際どい音がひびいて来そうな硬い青空である。
この富士がすべての気象に影響し、すべての感情を支配していた。それはそこにのしかかり存在している清澄な白い問題性そのものだった。
……
八時近くなっていた。富士の山頂の向こう側から、少しずつ、稀薄な小さい雲が、雪煙のように立ってきていた。向こう側からそっとこちらを窺っているような雲の気配が、四肢をひろげた稀薄な形で、前面へ舞い立って来ては、又たちまち、硬質の青空に呑まれてしまう。今はいかにも無力に見えるこういう伏勢は油断がならなかった。ともすると午までに、こういう雲がいつのまにか群がり、奇襲をくりかえして、富士の全容を覆うてしまうからである。
十時頃まで、本多は涼亭に坐って茫然としていた。……山頂の左辺にほのかに現われて、やがて宝永山に滞った雲が、その雲の尾を、鯱のように立ち昇らせた。
……
 梨枝は良人の目の向うところへ目を向けて、そこに何かを探ろうとした。しかし本多が窓越しに見ている目の先には、二三羽の小鳥が来ている枯芝の庭があるばかりだった。

上の引用の最後は必ずしも富士を暗示するわけではないかも知れないが、本多と梨枝の視線の対比という意味で引いておく。
ここに引いた描写は、このnoteが、先に「天人五衰」を読んできたためにまたしても混乱を招くかも知れないほどに透の見ていた海の描写と重なる。それは、三島の風景描写の特徴であると言うことも可能だろうし、逆に、全く似てはいない、と否定することも可能だ。今言えるのは、富士と、それをめぐる空の様子を本多が飽かず眺めていること、そして、梨枝にはそれが見えていないこと、である。先を急ごう。

幻影

本多にとって「日本の暁の寺」である富士は「目の錯覚で、富士が高くもなり低くもなる」。
「二十八」では、都良香「富士山記」、白衣の美女のくだりを引きつつ、「さまざまな目の錯覚を喚び起す富士山が、晴れた日にそのような幻を現出したのはふしぎではなかった。」という。
 富士は冷静的確でありながら、ほかならぬその正確な白さと冷たさとで、あらゆる幻想をゆるしていた。冷たさの果てにも眩暈があるのだ、理智の果てにも眩暈があるように。富士は端正な形であるがあまりに、あいまいな情念でもあるような、ひとつのふしぎな極であり、又、境界であった。その堺に二人の白衣の美女が舞っていたということは、ありえないことではない。 「二十八」では、富士吉田の浅間神社における慶子の「まあ、きれい。すばらしいわ。日本的だわ」と言う発言も記憶しておこう。
そのあとも、気になる描写はあるが、ことに重要なのは「四十二」だろう。
さっきあんなに酔うような色をしていた富士は、八時の今は茄子の一色になり、麓のほうの萌黄のぼかしの中に、稀薄な森や村落の姿を浮ばせていた。こうした濃紺の夏富士を見るときに、本多は自分一人でたのしむ小さな戯れを発見した。それは夏のさなかに真冬の富士を見るという秘法である。濃紺の富士をしばらく凝視してから、突然すぐわきの青空へ目を移すと、目の残像は真白になって、一瞬、白無垢の富士が青空に泛ぶのである。
 いつとはなしにこの幻を現ずる法を会得してから、本多は富士は二つあるのだと信ずるようになった。夏富士のかたわらには、いつも冬の富士が、現象のかたわらには、いつも純白の本質が。
これは、誰でも経験する残像の現象だが、それを「現象と本質」と読み替えることを、常人はしないだろう。ここには、本多の事実認識のありようが垣間見える。
それは或いは仏典に学んだ認識の方法だったのかも知れない。いささか極端な例だが、佐田介石の『視実等象儀詳説』巻頭の「視象」と「実象」の説などは、案外本多の考えに近い。一方で、その自覚可能な認識は、「真実」なのかどうか。

炎上

本多の会得した秘法は、「暁の寺」のクライマックス、プール開きの夜の別荘炎上の場面で鮮やかに描かれる。
「四十四」は、後に三保で回想されることになるジン・ジャンと慶子の様子の覗き、そして清顕の日記をめぐり、梨枝とのかみ合わないやりとりと続く。
一度は変身の慾望を抱いたのに、自分は変わらないでも、見ることだけで世界が変貌するのを学んだ以上、現実のほうを信頼するのが賢明だと考えた梨枝は、もはや以前の梨枝ではなかった。彼女は良人の世界をやさしく蔑んでいた。その実、見ることによって、良人に加担したとは知らずに。
「生まれ変わりがどうしたって言るんです。莫迦莫迦しい。私は日記なんか読みませんよ。……」
……
……しかし、本当のところ、二人は覗き屋の夫婦になったのだった。
 とはいえ二人が見たものは同じではなかった。本多が実体を発見したところに、梨枝は虚妄を発見していたのである。

このふたりのやりとりのなかで、養子の話が出てくるが、本多は「後継などないほうがいいのだ」と否定し床に就いたらしい。
そのあと、火事で起こされる。
火事の詳細な描写の中で、本多は、ベナレスの火葬の様子を想起する。そして、「四十四」の最後。
 ほかに落着くところとてなかったので、皆はおのずから涼亭に集まった。そこで出た話は、ジン・ジャンがたどたどしく、さっき火をのがれてここへ来たとき、芝生から一匹の蛇があらわれて、その茶色の鱗に遠い火の照りを油のように泛ばせながら、非常な速さで逃げて行った、と語ったことである。話をきけば、わけても女たちには一入冷気が肌にしみた。
 そのとき、赤い瓦のような色の暁の富士が、頂上ちかい一刷毛の雪ばかりをきらめかせて、涼亭の人たちの目に映った。こんな場合にも、殆ど無意識の習慣で、本多は赤富士を見つめた目を、すぐかたわらの朝空へ移した。すると截然と的皪たる冬の富士が泛んで来た。
この火事は1952(昭和27)年のことだった。
最終章である「四十五」は、1967年の晩餐の席に齎された、20歳のジン・ジャンの訃報(1954年春)である。ここには、既に「天人の五衰」が兆している。
……二十歳になった春に、ジン・ジャンは突然死んだ。
 侍女の話では、ジン・ジャンは一人で庭へ出ていた。真紅に煙る花をつけた鳳凰木の樹下にいた。誰も庭にはいなかった筈なのに、そのあたりから、ジン・ジャンの笑う声がきこえた。遠くこれを聴いた侍女は、姫が一人で笑っているのをおかしく思った。それは澄んだ幼ならしい笑い声で、青い日ざかりの空の下にはじけた。笑いが止んで、やや間があって、鋭い悲鳴に変わった。侍女が駆けつけたとき、ジン・ジャンはコブラに腿を咬まれて倒れていた。
 医師が来るまでに一時間かかった。その間にみるみる筋肉の弛緩や運動失調があらわれ、眠気と複視を訴えた。延髄麻痺や流涎が起り、呼吸はゆるく、脈は不整で迅くなった。医師が着いたのは、すでにジン・ジャンが最後のけいれんを起こして息絶えたあとであった。

(ふたたび)駒越

かえりみれば、足下の県道のかなた、ところどころに鯉幟の矢車をきらめかせた、新建材の青い屋根瓦の町の東北に、清水港の錯雑としたすがた、陸のクレーンと船のデリックが交錯し、工場の白いサイロと黒い船腹、しじゅう潮風にさらされている鉄材や厚いペンキ塗装の煙突が、一群の機構は陸にとどまり、一群は幾多の海を渡って来て、一ト所に落ち合い睦み合うあの露わな港の機構が遠く見られた。海はそこでは、寸断された輝く蛇のようになっていた。
 港のむこうの山々のずっと上方に、雲の中から僅かに山巓だけを覗かせた富士があった。あいまいな雲の中に、山頂の白い固形が、あたかも一塊の白い鋭い巌を雲上に放り出したように見えた。
 本多は満足してここを去った。

寸断された輝く蛇の上に見える富士を、本多は目をそらさず、満足している。

全集解説によれば、「暁の寺」の最終回は、70年4月の『新潮』に掲載された。三島が三保や駒越を訪れたのはそれよりあとの同年5月である。したがって、三島は、「天人五衰」冒頭の描写の具体的なプランは持っていなかったはず、なのだけれど、こうして並べてみると、見事に呼応している。再び駒越に戻ってきたように感じてしまう。それは、何度も言うように、このnoteでは、先に「天人五衰」を読んでいたので、余計にそう感じるのかも知れない。
ここに至って改めて眺めるなら、先に触れた三羽の鳥は、ワルハラ炎上のあと、指輪を取り戻したラインの乙女たちであり、「乳海攪拌」は、世界の再創造であるかも知れない。それは、透の生まれる前に兆していた現在であり、未来である。
そして、寸断された蛇は、「暁の寺」の蛇を引き受けつつ、ウロボロスの切断、転生の物語の終わりを暗示する。

風景

さて、かなり駆け足になってしまったが、「暁の寺」における富士山をめぐる描写を一通り眺めて見た。
改めて言うほどのことではなかろうが、これまでの検討を通して、一見写生的な風景描写のように見える山や海や空が、二人の「認識者」の特異な内面を映し出していることは、再確認出来たように思う。
そのうえで、三島が、御殿場・三保・駒越・日本平、そして駿河湾や富士山を最初からそう理解していたかのようにテクストの空間の中に配置する巧みさには、改めて感嘆せざるを得ない。
なかでも、駒越、そして、実在した信号所が、透の、本多の、そして慶子の、更に言えば絹江の、認識のせめぎ合う空間として、あるいは、ノルンたちが縄をない続け、世界を展望できる、この物語における六道の辻のような空間として創造されたことは、繰り返し強調してもしすぎることはないだろう。
また、大量に存在する「富士山文学」のなかでも、現代に於ける特別な存在であることも、改めて強調しておこう。

「解釈」に深く踏み込むことなく、テキストを引用しながらたどってきた作業は、これで一旦終わる。
最初に予告したように、このnoteでは、少し『豊饒の海』からも離れて、駒越や清水について、富士山について、もう少し時空を広げて考察を続けてみようと思う。

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