巴里の茶老 佐野喜三郎
戦前静岡茶広報史の一場面(番外2)
この記事は私の「マガジン」戦前静岡茶広報史の一場面の番外編1、「浅井忠 THÉ DU JAPON」の続きです。先にそちらをお読みください。
「パリ1900」によれば、パンテオン会の面々はそれぞれにあだ名を付けて呼び合っていたらしく、執筆者ではないものの、佐野は「茶老」と呼ばれていた。「老」が必ずしも高齢者を指すとは限らないものの、これは記憶しておこう。
さて、前回は、佐野が久保田米齊と同じ阿波丸で99年末にフランスに出航したこと、その後一旦帰国したらしく、改めて01年8月10日に出発して巴里出張所の主任に就任する予定であることまでを書いた。
前稿で引用しなかったが、黒田清輝の「欧洲出張日記」(1901年1月25日)にある「合田 佐野喜三郎が暇乞ニ来た」という一節は、合田清とともにこの頃一時帰国した事を示すのかも知れない。
さて、今回は、着任後の、出張所や佐野の動きを追いかけてみる。
巴里出張所
この時期の茶業組合中央会議所の海外展開については、『日本茶業史』(茶業組合中央会議所 1914)が詳しい。NDLデジタル公開資料なので、それぞれ詳細はリンクを御覧頂きたい。
前引、朝日新聞は出発の予告の後暫く関連記事が見当たらないが、『日本茶業史』では、1901年3月の「第21回茶業組合中央会議」の報告の後に、巴里博覧会の慰労は二千五百円の範囲で処理する事、巴里出張所新設経費予算は三万五千円である事に続き、佐野が8月10日に出帆したことが記されている。
続いて、朝日新聞。例の年賀状の年、一月末の記事である。
佐野は宣伝効果を主張するが実績は上がらなかったのか、本部は巴里出張所の閉鎖に動こうとしている。この時期、アメリカを含む各地に出張所があり、パリは振るわなかったらしい。
その後、同じ年5月10日発行の『工業雑誌』には、
と言う働きも見せているが中央会はアメリカにシフトし、ヨーロッパの出先を廃止する方向に傾いていく。
『日本茶業史』では、三十七年度はまだ「巴里出張所を継続して広告的事業を継続せしめ、又四月より開催される白耳義国利栄寿の万国博覧会に、本邦茶を出品したり」(281頁)とあるにもかかわらず、閉鎖に追い込まれたのは、業績不振だけでなく、日露戦争の影響があった。茶輸出そのものは「他業に比類なき長足の進歩」(291頁)があったにもかかわらず、国庫から支出される販路拡張に対する補助金は三十七年度半減、三十八年度には全廃されている。少し引用しよう。
国策として注力してきたはずの茶輸出が、ひとたび戦争となれば予算全廃に追い込まれてしまう現実。『茶業界』の事実上の廃刊も第2次世界大戦と連動していた事を思い出す。
その後、委託販売茶代金の精算は1910年も続いている(373頁)。
佐野は帰国したのか
さて、巴里の出張所は、明治37(1904)年度限りで閉鎖、佐野の帰朝許可も下りた。それでは、佐野は帰国したのだろうか。後にもう少し詳しい資料をも紹介するが、一時帰国の可能性はあるものの、05年以降も巴里にいたことは資料によって確認出来る。
ひとつは 石川半山「巴里の十日間」。1906年10月刊の雑誌だが、記事内容は1905年である。
もう一つは、1910年の『茶業界』、高木来喜が主筆となった改題号にある。
巴里万博から10年ちかく、出張所閉鎖からも5年経っている。併し、佐野は相変わらずパリにいて、日本茶の普及活動に尽力しているように見える。どういう活動をしていたのか、詳細な証言があるので引用しておこう。
館内限定資料なので、ここに上げるわけに行かないのだが、実は、この記事には「佐野喜三郎氏」とキャプションのある写真が掲載されている。背後に茶缶なのか、缶や瓶のような物が並んだ棚が在り、机の上の本を見ている男性は、ベレー帽のような物をかぶり、口ひげがあるように見える。確かに若くはない。
そう、この記事で重要なのは、佐野の、パリに於ける日本茶の評価に関する適切な発言なのは言うまでもないが、このnoteの文脈で言うと、07年の時点で、「在巴里日本人中の元老」「巴里に在留する事前後十五六年」、佐野はパリの日本人の中で重要な人物だったらしいことの方が注目される。仮に、07年の20年前と考えると、1887(明治20)年頃には既にパリにいた事になる。
ここまで来て、我々は、「茶老」と呼ばれていたとはいえ、若い留学生達の多いパンテオン会の面々と撞球に興じる人物が、それほど高齢とは思わなかった為に触れずにおいた、もう一人の佐野喜三郎を思い出さざるを得ない。
もう一人の佐野喜三郎
これも送信資料なので画像を貼り付けることは出来ないのだが、長尾一平 編『山本芳翠』(1941)巻頭口絵に、佐野喜三郎の肖像画が掲載されている。
この絵について、隈元謙次郎は「山本芳翆について」(『美術研究』(239) 国立文化財機構東京文化財研究所196503)にも同じ肖像を載せ、
と記している。「同じく」というのは、合田清の肖像で、こちらには彫刻を学んでいた、と説明がある。学友であった合田とは違うとは言え、佐野が何者か、と言うことについて触れていないのは、実際に情報がなかったのか。しかし、芳翠が肖像を描き、三井が所蔵したと言うことは、ただの留学生などではないはずで、或いは三井物産関係の人脈であったかとも想像される。
それにしても、1885年、パリに滞在していた佐野喜三郎と、1900年以降10年以上パリで茶を扱っていた佐野喜三郎は、同一人物だろうか。肖像画の佐野は若く見える。上で触れた07年頃の写真と、やや丸顔のところ、目鼻立ちなど、似ていなくもない。1900年頃、パンテオン会に関わった佐野は「茶老」と呼ばれた「在巴里日本人中の元老」である。もう少し『山本芳翠』をみよう。
いま、上で、三井関係か、と書いたのは、もう一つ理由がある。木山実「三井物産パリ支店初代支配人坪内安久について」(木山実 関西大学「商学論究」 64(2)20170110)と言う論文がある。タイトルの通り、このとき同船しているメンバーの中に、三井物産の初代パリ支配人がいた。ただ、同論文では「パリに向かう坪内は万博事務官の前田正名とともにフランス郵船に乗船し、1877年10月9日に横浜を発った」とあり、出典は「史料紹介(2009) 「三井物産会社「日記」(第三号・第四号)」『三井文庫論叢』第43巻。」らしい。前田正名の名前もあるが、日付も船籍も違う。この場合、物産の日記の方が信憑性は高いかも知れない。三井との繋がりは今後も記憶にとどめておきたい。
本書は昭和16(1941)年に刊行された山本芳翠を回顧する本で、「先年」がどの程度の過去を指すかは判らないものの、佐野は昭和まで存命だった可能性もあり、二人の佐野喜三郎が同一人物である可能性は簡単に否定できる物ではない。
というのも、山本芳翠明治11(1878)年渡仏の目的は、同年開催の巴里万博にあった。『山本芳翠』や隈元謙次郎論文にも詳しい事情はあるが、ここは手っ取り早くウィキペディアを参考にしておこう。ウィキペディアには、巡洋艦畝傍のことも記されている。
つまり、この佐野喜三郎は、前の巴里万博のために渡仏し、フランスで建造された軍艦に便乗帰国予定だったというわけだ。このような個別の事情は探せばまだ出てきそうだけれど、それでも彼の「素性」は見えてこない。
出張所員と文化
大分長くなったので、この辺りで一度止めておこう。葉書のデザインの話はどこかに行ってしまった。
浅井忠のデザインした日本茶広告用図案の絵葉書を浅井忠本人に送った(為に美術館に収蔵されることになった)佐野喜三郎が、もし、山本芳翠と接点のあった人と同一人だとすれば、20年近くパリで茶貿易に関わっただけでなく、長いこと芸術家達とも交流した「文化人」だったことになる。
今回私は、一枚の絵葉書の謎解きのようなことをしただけなので、パンテオン会のことも、万博や出張所のことも、詳しくは調べていない。
気になるのは、佐野喜三郎という人物の行動が特別だったのかどうか、比較対照が必要だろうということだ。
茶業組合中央会議所は販路拡張のために早くから欧米を中心に喫茶店や出張所を設置していた。そこに派遣されていた人たちは、茶に対する知識と語学力だけでなく、それなりの身分の人と関わる社交性や文化人としての素養も備えていたように想像できる。
佐野と同時代の出張所主任の名前は、たとえば、佐野と同時に帰国を許されたシカゴの主任、水谷友恒(この人物も大物である事、間違いない)など、『日本茶業史』や『茶業界』等の資料をたどっていけば簡単に見つけられる。それらの人物はそれぞれに「名士」と見受けられる。それぞれに、どのような背景を持ち、どのような活動をしていたのか、興味は尽きない。逆に、例えば1913年、茶業組合創立三十年記念大会では、故人を含め多くが表彰される中、なぜ佐野の名前はないのか。本部と佐野の微妙な関係を示すような記事もあり、気になるところではある。解らないことが増えていく。
さて、好奇心のままに調べ物を愉しんでいるだけなので、すぐに浅井忠に戻ることもないので、佐野のことを気に掛けながら、次は今回の調べ物で気になった“出張所主任”の一人について書いてみようと思っている。
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