浅井忠 THÉ DU JAPON
戦前静岡茶広報史の一場面(番外1)
久しぶりに茶業広告史の記事を書くけれど、これは静岡からは離れるので番外編である。そして、またしてもツイッター経由。
さしあたり、情報の発端から整理しておこう。
千葉県立美術館で、第2期コレクション展 絵葉書の時代2が23年6月3日から7月9日まで開催されている。展示品には、浅井忠の集めた絵葉書が複数含まれているようで、その中に「《浅井忠宛絵葉書》佐野喜太郎差出」という一葉がある。美術館博物館企画の紹介サイトの当該展示記事が大きめの写真を載せているので下に引用しておく(この記事のタイトル画像出典も同じ。問題があればご一報ください)。
読みづらいので判読は心許ないが、文意は通るので、念のため文字起こしをしておこう(適宜句読点を補う)。
問題は、この手書き文面ではなく、印刷部分である。図は、○サ印の籠を手にした茶摘み娘。上に「THÉ DU JAPON(日本茶)」とあり、欄外下には「K.Sano 11,Rue De Provence,11 PARIS」と印字されている。
文字情報を読む限り、明治36(1903)年、パリ在住の佐野喜太郎なる人物が、個人用の絵葉書を作って浅井忠宛に年賀状を送った、と言うことになる。
では、この佐野喜太郎と言う人物は何者だろうか。美術関係か、政府関係か、或いは茶業関係か。検索してもそれらしい人物に行き当たらない。
差出人が不明確であるにしても、この時代のパリで、日本茶をモチーフにした絵葉書を自ら印刷して浅井忠に送る人物がいたことは特別なことのように思われる。
そのようなことが気になってツイッターに投稿したところ、早速、古写真を蒐集されているむかしもん文庫さんから御教示の投稿があった。
指摘されている『方寸』2巻2号(NDL送信資料)は、浅井忠追悼号で、8ページに、「日本茶 遺作(其七)」として同じ絵が、カラーで掲載されている。12ページの挿画解説には「日本茶(遺作其七)は巴里滞在中日本茶業組合出張員佐野喜三郎氏に与へられたる広告用図案」とある。更に、2ページに掲載された「雪のバルビゾン」という半七(田中松太郎)宛の浅井本人の書簡冒頭に、以下の記述が見られる。
ウイーンの田中松太郎に頼まれていた小便小僧等の玩具を、久保田米斎と同居している佐野喜三郎に依頼して購入してもらった、と言うことだろう。
これだけ見ても、千葉県立美術館の言う「佐野喜太郞」は、茶業組合出張員佐野喜三郎で間違いなさそうである。浅井忠の大きなコレクションを所蔵する美術館が敢えて「喜太郞」とした根拠は不明であるが、ここから先は「喜三郎」と表記する。
浅井デザイン
さて、上記『方寸』の情報で注意を引くのは、茶業組合出張員である佐野喜三郎がオペラ座近くで、久保田米斎と同居していたと言う取り合わせだが、それにもまして、解説にある、浅井が佐野に与えた広告用図案である、という言い方が気になる。つまり、これは、実際に使われたかどうかはともかく、浅井が日本茶の海外向け広告の図案をデザインした事を意味している。というか、そもそも、この絵葉書は佐野から浅井に送られたけれど、作画そのものは浅井自身だったという話だ。
当該『方寸』は浅井の歿後まもない刊行で、関係者も関わっている中での事実誤認は考えにくいので、今はこの記述を信じておこう。
浅井忠について、近代洋画史の重要人物、くらいの知識しか無かった私は、これをきっかけに、浅井が所謂図案の世界に入っていた事を知ったのであるが、そうしてみると、この絵葉書は、彼の歴史の中で、実は重要な一歩を示す作品なのではないかと思われるし、一方、蘭字に象徴される日本茶広告図案の世界では実現しなかったように見えるジャポニズム逆輸入による和洋融合デザインの可能性という意味でも興味深いと思うのだけれど、それはただの素人考えにすぎない物だろうか。
というわけで、この記事では、浅井を含む芸術家達の巴里滞在と、日本茶輸出戦略の動きを並行してながめることで、20世紀初頭の商業デザインの一場面を描き出してみようと思っている。
1900年 パリ万博
ここから先、浅井と佐野の接点を探りながら、二人のタイムラインを整理してみよう。勿論、「接点」というか、交点は明確で、1900年パリ万博である。
1851年、ロンドンで始まった「万国博覧会」は欧米の大都市にひろがり、日本は1862年、第2回パリ万博から正式に参加している。この時すでに清水卯三郎が茶店を出展し好評を得たことが知られており、以後、万博は日本茶の海外戦略の重要な舞台になっていた。一方、芸術工芸分野での出品は所謂ジャポニズムの契機の一つになると同時に制作者にとって学びの場にもなっていたらしい。浅井と佐野は、全く別の目的で、パリ万博を訪れていた。
パンテオン会と佐野喜三郎
芸術家を中心とする1900年のパリについては、そのものズバリ、『パリ1900年・日本人留学生の交遊 『パンテオン会雑誌』資料と研究』(以下「パリ1900」と略記)という本が存在する(個人の紹介記事:他にもパリの記事在り)。そして、この本には、浅井忠、久保田米斎、和田英作といった芸術家達に交じって佐野喜三郎の名前が見える。
巻末、参考資料2「「パンテオン会」会員・関係者プロフィール」のうち、「B)「パンテオン会」会員――『パンテオン会雑誌』関連外」というカテゴリーに佐野喜三郎が掲載されている。本文だけ引用しよう。
本文のあと、参考文献として使われているのは、
1 久保田米斎「鵬程記(一)」
2 和田英作「欧州日記」
3 浅井忠書簡「雪のバルビゾン」
4 和田英作旧蔵「巴里玉天会第一回競技会成績表」
の4点で、4の佐野の登場する紙以外は、それぞれに資料を確認出来る。
芸術家達は、それぞれに日記や書簡を含む様々な情報が公開されており、研究の蓄積もあるので、ここで改めて整理する必要もないのに対し、佐野は、パンテオン会に関わっているとはいえ、会誌の執筆者ではなく、現在では殆ど言及されていないので、先ず、佐野について判っていることを書きだすことから始めよう。
パリの佐野喜三郎
佐野喜三郎を検索すると、明治20年代に鉄管関係の汚職に絡んだ人物をはじめ、様々な同姓同名の人々がヒットする。それらの中に探している佐野が含まれるのかどうかは、まだはっきりせず、パリに行く前・帰国後にどんな仕事をしていたのかは、追々考えることにして、とりあえず簡単に確認出来た動向から。
「パリ1900」にあるように、佐野は久保田米齊と同じ船で日本を出発している。
久保田米斎は巴里万博前の渡航時、読売新聞と記者としての契約をしたらしく、99年12月25日に「欧州渡航通信(第一信)」を掲載。横浜から新造船阿波丸に乗船し、神戸寄港時には京都で送別会に出席したことなどを述べている。上の記事は、その続きにあたる連載で「鵬程記」と題して15回、更に「倫敦より」「巴里だより」「巴里博覧会画報」「巴里博覧会通信」「巴里の川上芝居」など、イラストを交えつつ1900年9月まで連載を続けた。この間、佐野の職業や身分についての記述はないが、同船した他の5名(平井海軍主計少監(七三郎)・松本(重威)法学士・加藤正治・松波正信・渡邊豊治)がそれぞれ後に名を成す興味深い人々であることを考えると、重要な人物だったのだと想像される(完全に脇道にそれるが、何れこれらの人々についても個別に触れたい)。
さて、1900年2月4日に馬耳塞(マルセイユ)に到着、ここで、松波・佐野・加藤・渡邊は下船、平井・松本と倫敦に着いて阿波丸を下りたのは2月14日だったらしい。
その後、米齊は博覧会開会前に巴里に入っているが、記事中に佐野の名前は出てこないし、読売新聞にも佐野の動向を伝える記事は見当たらない。
茶業組合出張員
さて、既に引用したように、浅井忠は、「佐野君は茶業組合の出張員として先頃から11RueProvinceに家を構へて居る。」と書いており、「パリ1900」もそれに従っており、詳細不明ながら1903年まではパリにいたとしている。
詳細は不明、なのだけれど、少なくとも佐野が一度帰国していること、そもそも茶業組合の巴里出張所は1900年にはまだ存在しなかったことは茶業関係の資料から確認出来る。先ず、朝日新聞から関連記事を引用しておこう(以下、朝日新聞記事は「朝日新聞クロスサーチ・フォーライブラリー」による)。
米齊の記事を連載した読売は、巴里出張所についての記事はヒットせず、朝日では逆に茶業界の動きを追っている。ここまでで、佐野が、少なくとも01年前半には日本におり、8月10日に改めて出発することが分かる。この後、まだ続きがあり、佐野は、出張所の閉鎖に伴い、1904年1月の中央会議所の役員会で帰朝を許されるるのだが、その後単身、パリで貿易商のようなことをしていたらしく、更に遡れる可能性のある情報もあるのだが、予想外に長くなったので、とりあえずここで一旦切ろう。
いずれにしても、ここまでで、千葉県立美術館、浅井忠のコレクションにある絵葉書のK.Sanoは、この佐野喜三郎で確定できているはずである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?