見出し画像

戦前静岡茶広報史の一場面(5)

はじめに

「戦前静岡茶広報紙の一場面」は終わりが見えないまま、5回目になってしまった。第4回で扱う予定だった瀧恭三は、当初の予想以上に情報があり、しかも高木来喜以上に現代では知られていないように見受けられるので、少し時間をかけて整理した方が良いように思っている。
学術論文の場合、最後まで書き上げてしまわないと発表できないのだが、オンラインのnoteなので、私の探索や整理そのものを公開してしまおうかと思っている。
それは、読んでくれるかはともかく、学生を中心とした後進に、調べる楽しみを伝えたいと言う意味もあるし、こうして情報を公開することで、まだ新しい情報が出現するのではないかと言う期待もあるからである。

『茶業界』

さて、今度こそ瀧恭三の話、なのだけれど、まず基本情報として『茶業界』誌について確認しておこう。
この雑誌は、静岡県茶業研究会が刊行していた『茶業の友』を主要な前身とし、1910年4月に刊行を開始した。『茶業の友』は、現在国会図書館に23号(190901)から最終刊37号(191003)まで収蔵、送信資料として公開されている。この37号には、巻頭に「会告」として、発行所を静岡市追手町静岡県茶業組合聯合会議所に移転すること、雑誌名を『茶業界』と改めること、高木来喜を主筆とすることを含む7項目を告知している。そして、翌月『茶業界』は創刊した。
高木から瀧に主筆を交代した経緯は、前回述べた通りで、廃刊まで瀧が主筆を務めた。廃刊のことは前回書かなかったので、ここで触れておく。
最終号は、35巻7号、1940年3月の刊行である。ここには、会頭山口忠五郎の「本誌移譲に方りて」と、主筆瀧恭三の「廃刊の辞」が掲載されていて、状況が見える。
山口は冒頭、「事変に依る紙類の統制と、全国茶業組合聯合会議所会頭会議の要望とに依り、全国の茶業関係雑誌を来四月より中央に纏め、中央会議所に於て発刊することになつたので、本誌は本号限りで廃刊することに決した。」と簡潔に経緯を述べ、続けてこの雑誌の歴史、日本茶業、静岡茶業に於ける重要性を語りつつ「洵に苦痛とする所であるが、事変の影響として是を甘受するに至つた次第である」と、痛切な心情を述べた上で、今後の発展を祈って締めくくる。
続く瀧の「廃刊の辞」は「日支事変」によって茶の生産と貿易がどう変容するか、すべきかを論じた上で、こういう情勢下で「指導と報道を兼ねた本誌の廃止は遺憾なるを禁め難い。全国を導いて行くべき事業上の地位を占めて居り、其生産に於ても其販売に於て独自の進路を有してゐる本県が独自の茶業雑誌を有するは蓋し当然である、事変の終熄して紙類の供給自由な時を迎へたらば、本所の如き窮屈な立場で無く、自由の立場に於て茶業を率て行くべき雑誌の生誕せられんことを切望する。 (二月二十二日)」と結ぶ。

ついでなので付け加えておくと、『茶業界』のあとを継いで全国紙となった『茶』は、茶業組合中央会議所を発行元、亀山正雄を編輯人として、40年4月に創刊している。「発刊の辞」は中村圓一郎会頭、祝辞「発刊を祝す」を農林大臣島田俊雄が寄せている。当然とは言え、廃刊の痛みを酌むこと無く、基本的に祝賀色が強い。
本号には瀧の名前は見当たらないが、第2号(194004)には「適切な茶業経営共進会」という一文を寄せるとともに、「中央会日誌」の人事異動記事中に、「本所雑誌編輯事務嘱託(四月一日附)」として、瀧恭三、加藤裕也・小泉脩三の名が挙がっているから、ほぼ継続して雑誌編輯に関わったことになるが、その後「中央会日誌」などでの肩書きは「嘱託」である。
ところで瀧は、本誌41年1月号から「三長老に日本茶を聴く」という連載を始める。「三長老」とは、当時既にかなりの高齢だった原崎源作、杉山彦三郎、中村圓一郎という、近代茶業史に名を残した巨人たちである。瀧は冒頭、趣旨を説明したあと「中村氏のことは御膝元の加藤氏に譲り、私は原崎、杉山二氏の茶業を歩んだ蹟を訪ねて是を記したいと思ふ。」とのべ、原崎源作を41年6月まで6回連載、続く7月号では杉山彦三郎に移るが、杉山は同年2月7日に歿したため、追悼の挨拶から始め、杉山のことばを交えた瀧の回顧談のような記述で4回、10月号まで続いた。
そのあと、11月、12月は掲載が無く、翌42年1月号から中村圓一郎が始まるが、担当は山口素水という人物であった。この山口素水については今のところ確実な情報が無い。
もともと、在京の中村の取材は加藤(裕也か)に任せる予定だったので、疑問はないのだが、このあと、より正確に言えば、杉山編の終わる41年10月を最後に『茶』誌上から瀧恭三の名前が消える。瀧の生年は今のところ不明だが後で述べるように、当時60は越えていた可能性が高く、当時とすれば歿しても不思議は無いのだが、同誌上に情報を見いだせないのはやや奇異に感じる。高木来喜同様、別天地を求めて去ったものか、今後の課題が残る。

なお、『茶』は、国会図書館に1944年3月号まで所蔵されているが、その後どうなったかも、まだ確認していない。時局による廃刊か、単純に納本されなかっただけなのか。茶の都ミュージアムなどにあたればもう少し判りそうだが、私の守備範囲を超えるので、関係各位の調査を待つ。

瀧恭三

いよいよ瀧恭三である。NDLデジタル検索による初出は、1904年の『職員録』で、少なくとも1907年まで同じ、静岡県立高等女学校(片羽町)の書記である。またしても別人の可能性を否定できないが、『茶業界』の主筆になるのは1913年からなので、それ以前に学校職員をしていた同姓同名の人物の存在を確認しておこう。ただし、当時の高等女学校の書記という職分については知るところがない。
また、『写真新報』154号(写真新報社 191107)には、「静岡公報記者瀧恭三氏」と見えるから、『茶業界』に移る前は高木同様新聞記者だったのかもしれない。

瀧閑村

さて、今まであえて触れてこなかった事がある。瀧は、『茶業界』誌でも、就任挨拶を含め、しばしば「閑村」という号を使用していた。恭三はおそらく学校事務や新聞記者で使用する本名であり、高木の紹介にあった「文章の人として夙に世に知られ」という賛辞は、まだ触れていない瀧閑村の文事を指しているに違いないのである。

深尾韶

ここでもう一人、追究を必要とする人物が登場する。静岡出身の社会主義者、日本に於けるボーイスカウト運動の創始者の一人、深尾韶による「交友の追懐」(『家庭雑誌』5(6)平民書房 190704)に、

 社会主義者以外、最近に得た心友は閑邨瀧恭三君である。君と予は同じ静岡県、同じ駿河に生れ、同じ北海道の経験がある。『中学世界』に投書家たりしも同じく文章に野心在るも同じ、唯君は年と識と共に数年の長。君今や遠く韓国に在つて京城日報に『沈鐘』といふ小説の筆を揮ひつゝある。久しく音信に接せぬ予も、日々其の新聞を見、君の健在を知て安心して居る。
……
十三の年から父母の膝下を離れた予の寒く小闇く淋しき常冬の生活に、炬燵の温かみを送つてくれた人は、輪島、久保村、瀧の三友であつたが……
……
幼な馴染、学校仲間、文章の相手、予にも一通りの友はあつた。が、調べてみれば、どれも之も大抵は予と同じく失意の人、不遇の人ばかり、類は友を以て集まるとでも云ふのであらうか。

「交友の追懐」

ある意味、私の探求は、ここで終わってしまっても十分なほどの情報量である。深尾は1880年生まれなので、瀧は70年代、つまり、明治一桁の生まれと想像できる。後に触れるように、茶業に関わっていた頃は鷹匠町に住んでいたようだが、出身は或いは藤枝方面では無かったかと推測できる。仮に1875年の生まれとすれば、『茶』から名前の消える42年には67歳という計算になる。そして、「投書家」であり、今は記者であり作家である。そして、不遇? 北海道? さらに、「閑村」は「閑邨」とも通じると言う、当然の情報は、文字列検索ではとても重要である(NDLでは異体字扱いらしく、実際にはどちらでもヒットすることがある)。

瀧閑村の仕事へ

さて、そんなわけで、『茶業界』参加前の瀧恭三の動静が大分見えてきた。とはいえ、生没年も、具体的な業績も、まだ明確になったとは言えない。検索によって、短歌や小説が読めることは確認済みなのだが、整理出来ていないので、この辺りで一度止めて、後日、続きを書くことにしよう。

深尾と言い、高木と言い、瀧の周辺には「活動家」の存在が見え隠れする。このあたりの交流圏についても考察が必要だろう。

引き続き、情報求む。

おまけ 広報史の一場面

『茶』2(3)(194106)に、「茶園を訪ねて」という、13頁に及ぶ特輯記事がある。このうちの大半を占める10頁分の紹介文を引用しておく。

日本茶業聯合委員会の招きで恒例の茶園視察が大衆小説の作家連によつて去月行はれた。
総帥長谷川伸氏を初めとし、会するもの甲賀三郎、土師清二、大林清、村上元三、長谷川幸延の六氏、同行作家連の手記、大いに味ふべきものがある。

「茶園を訪ねて」

ついでに、各氏の題目を記せば以下の通り。
長谷川伸 吐月峯の僧
甲賀三郎 緑茶と紅茶と玉露――県立茶業試験場を参観して――
土師清二 臨済寺と碾茶
大林清  牧野原に学ぶ
長谷川幸延 二人漫談 お茶うけ話
村上元三 汁・石・飴

それぞれの個性の出た興味深い文章である。長谷川伸が牧之原で茶摘みに興じる写真も掲載されている。
コースについては村上元三が詳しい。それによれば、
茶業組合・吐月峰・丸子(とろろ)・佐の春(料亭・宿泊も?)・小夜の中山夜泣石・牧之原茶園
であったらしく、他の記事を照らし合わせれば、静岡市内では臨済寺、牧之原では茶業試験場の見学もしている。また、大林清は、文中に「瀧恭三氏著『牧野原物語』」を引いており、或いはこの一行にも配付されたのかも知れない。

このあと「食味倶楽部 茶園見学記 画と文・川村みのる」が3頁分ある。こちらは吐月峰・丁子屋・小鹿の茶畑をバスで巡る日帰りコースのようで、別日程かもしれない。

これらの企画は、現代で言えば、観光振興のためにブロガー・ユーチューバーの類を招待して宣伝してもらうようなものだが、41年にこのような企画が開催できたことには驚かされる。

更についでにいえば、村上元三は、冒頭、10年ぶりに静岡駅に降り立った時、「はつと吐息をつかれた思ひがあつた 静岡市の顔が、変つてしまつてゐる」と言い、変貌ぶり、そして復興の気配を記している。これは、1940年1月の静岡大火を指している。この大火については40年3月、『茶業界』最終号に掲載された、太田光洋「暗い静岡市」が、当時の様子、人々の動静を記して重要な証言である。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?