追補:さらに、幾人かの佐野喜三郎
戦前静岡茶広報史の一場面(番外3)
前稿で佐野喜三郎については一区切り付けて、次に進もうとしたのだが、いささか混乱しているので、確証が持てないことについても書きだしておく。
前にも書いたが、佐野喜三郎という名前をNDLデジタルで検索すると、そこそこ同姓同名の人物が出てくる。試しに、今、ヒットしたのは362件。
さしあたり年代や職業だけで多少排除出来るとは言え、なかなか同定するのは難しい。明確な根拠はないが、例えば、検索で何件も出てくる鉄管汚職に関わり、結局不起訴になった人物はただの工員でないのは確かだが、今のところ別人だと判断している。とはいえ、例えば明治30(1897)年、佐野喜三郎の著書『実用鉄工表』という、鉄工のプロにしか理解できないような冊子の題辞「礎」を前田正名が書いているのをみると、少なくとも前田正名は、複数の佐野喜三郎を知っていたことになるし、或いは同一人物なのか、と疑いたくもなる。
逆に、目指す佐野かと疑いつつ、意味を読みかねて紹介していない資料もある。それらの中には、他の資料を読んでいるうちに理解できるようになったものもある。学術論文なら、そう言う解釈、位置づけが完結してからまとめて発表するのだが、ここでは、途中経過も公開しているので、こういうことが起こるわけだ。
たとえば、1878年巴里万博に山本芳翠等と同船した佐野喜三郎は、既にそれなりの地位にある人物のように見える。この人物が具体的に何をしたのか、今ひとつ明確に出来ないまま、博覧会倶楽部 編『海外博覧会本邦参同史料』第2輯(昭和3)中、「五 巴里萬國博覽會(明治十一年)」で、「庭の小門建築」で銅牌を受賞している佐野喜三郎を同一人物だと言い切れるだろうか。
造園か、建築の専門家なのか。実は、『明治十一年仏国博覧会出品目録』(仏国博覧会事務局明13.2)を見ると謎は解ける。
詳細な資料を確認していないが、この第八大区第八十五小区には、勧農局と三井物産が手がけた茶室があったのだろう。田中孝次郎は未詳(三井物産派遣の「田中幸次郎」は別人と考えておく)だが、後藤功祐は彫刻家として名を成した人である。となると、佐野は、建築と言うより茶室、茶道の心得のある人物と考えて良いのかも知れない。
先に触れた『海外博覧会本邦参同史料』第2輯、「第五 日本陳列館―本邦出品の槪況―實績」の中に、「シヤンドマルス日本陳列館正門」「トロカデロ日本庭園表門」の写真を掲出し、解説を付しているので引用しよう。
なお、この部分の記述は、『仏蘭西巴里府万国大博覧会報告書』1(仏国博覧会事務局,明13.2)によっているようで、少し詳しい記事がある(写真はない)。
なお、トロカデロの千坪の区分は『仏蘭西巴里府万国大博覧会報告書』2、附録で確認出来る。確かに素晴らしく良い位置である。
大蔵省印刷局による石版「真景図」も掲載。
興味深い資料でつい話がそれた。
78年の万博に参加した佐野の仕事が判明したからといって、この喜三郎と今まで探索していた喜三郎が同一人物と確実に言える、と言うわけではない。ここに、更にもう一人の有力な佐野喜三郎が現れてくる。
NDLデジタルでは栃木の繊維産業関係者が複数ヒットする。勿論、繊維産業は茶と並ぶ日本の輸出品であり、栃木は先進地域である、とはいえ、繋がりはなかろうと思って放置していたのだが、ふと思い立って時々お世話になっているデジタル版『渋沢栄一伝記資料』で検索してみると、鉄管事件の人物とこの人物とがヒットする。せっかくなので、鉄管の方もリンクしておこう。
「東京市会議事録(附録) 第四五号・第九―二六頁 明治二八年刊」の中にある「偽造鉄管調査委員報告」である。
一佐野喜三郎 前同上(水道改良事務所月島出張所鉄管検査係:引用者補) 詐欺取財犯 十一月一日逮捕
1895年。さすがに別人にみえる。対して、もう一人の佐野喜三郎は2個所。書類は別だが同じ情報である。
製麻技術の機械化に伴う技術習得の為、フランス語の出来る「同社技師」佐野が明治21(1888)年4月に短期間渡仏した。「同社」は「下野麻紡織会社」を指す。さて、今まで検討してきた佐野は、1888年に何をしていただろうか。
10年前、1878年の巴里万博に派遣され、1900年にも渡仏し、その後1910年頃までは少なくともフランスにおり、あるいは、昭和まで生きたかも知れない。この時期、フランス語の能力があり、渡仏した佐野喜三郎なる人物が、二人居たと考えるべきかどうか。
すこし、「下野麻紡織会社」の佐野喜三郎を調べてみよう。
下野麻紡織会社
渋沢資料が引いている『日本製麻史』(高谷光雄 法貴定正 1906)は、『明治前期産業発達史資料』別冊 第62 第1、『明治前期産業発達史資料』別冊 第62 第2として明治文献資料刊行会から復刻されている。
このフランス派遣については、熊倉一見「本邦初の工場用自家水力発電(1)--旧下野麻紡織会社の創業 」(『産業考古学 』(60)産業遺産学会199106)が少し詳しい。主要な資料は大河原雄吉『下野麻紡績会社史』によっているらしいが、閲覧困難な資料のようなので、ひとまず棚上げしておく。ただし、注の中に、佐野について「ベルギー留学、通訳として同行渡仏する。」とあるのは記憶しておくべき情報である。
というのは、下野麻紡織を含む国内の製麻会社が合併してできた日本製麻、後の帝国製麻の社史『帝国製麻株式会社三十年史』(帝国製麻株式会社 編,帝国製麻,昭12)には、上記のフランス派遣に関連して、大塚洋吉と佐野喜三郎の写真付き記事がある。熊倉論文の背景と重なるところもあるので、少し長めに引用しておく。
つまり、佐野は元々ベルギー留学(おそらく機械分野)の経験があり、フランス語が堪能な社員として大塚に同行したということだ。
送信資料なので画像を貼り付けるわけに行かないが、ここに掲出された若き日の佐野は、山本芳翠による肖像画とも、『商工世界太平洋』に掲載された「元老」期の写真とも、似ているように見える。それは、こうやってたどってきた私の思い込みだろうか。
栃木県史
下野、栃木県は、繊維産業の先進地であり、県史にも詳しい記述がある(余談だが、私の祖父小二田英吉も栃木県の繊維産業に従事し、福井県に招聘されている。このことは別に書く予定)。いま、『栃木県史』通史編 7 (近現代 2) 及び『栃木県史』史料編 近現代 6から、佐野に関する記述を見てみよう。
既に紹介したように、佐野は、大塚要吉の通訳として渡仏したのであったが、創業者の一人、鈴木要三の長男である要吉には色々問題があって、後見人的な役割もあったらしい。史料編には、熊倉論文でも触れられている生々しいやりとりの書翰が掲載されているが、何はともあれ、任務を果たして帰国したのは明治22年2月だったらしい。機械を設置して操業開始した物の、当初の経営はうまくいかず、23年末に佐野は解雇されたらしい。
史料編の鈴木要三からの書翰をみると、佐野に対する不信もあったように見受けられる。そもそも佐野はいつから正社員だったのか、普段どんな仕事をしていたのか、今ひとつはっきりしない。
さて、興味深い話題ではあるが、随分長くなってしまったので、ここまでの複数の「佐野喜三郎」について、時系列で整理して本稿を一旦締めることにしよう。
佐野喜三郎年譜稿
実のところ、まだまだ同姓同名の、検証すべき佐野喜三郎は居るのだが、とりあえずここまでに紹介した佐野の動向を、年代順に並べてみよう。
以下、識別する為に、以下のような符号を付けることにする。
A:浅井忠の絵葉書に関わり、1900年万博以降長くパリにいた人物。
B:山本芳翠と共に渡航し、1878年万博に参加した人物。
C:鉄管疑獄に関わった人物
D:下野製麻に関わった人物
E:「実用鉄工表」の著者
明治11(1878)02 山本芳翠等と渡航(B)*日付存疑
明治11(1878)05 パリ万博(5/20~11/10)
明治18(1885)冬 山本芳翠が肖像画を描く(B)
明治19(1886)10 畝傍出航(乗船予定だったが乗らず。12月遭難)(B)
明治21(1888)04 大塚要吉と渡仏 以前ベルギー留学経験あり(D)
明治22(1889)01 帰国(D)
明治23(1890)末 下野製麻解雇(D)
明治28(1895)06 不正鉄管事件発覚(C)
明治28(1895)11 逮捕(C)
明治29(1896)06 無罪確定(C)
明治30(1897)05 『実用鉄工表』刊(E)
明治32(1899)12 久保田米齊等と渡航(A)
明治33(1900)04 パリ万博(4/15~11/12)
明治34(1901)01 黒田清輝に暇乞い(A)
明治34(1901)08 パリ出張所主任として出発(A)
明治34(1901)12 浅井忠、田中松太郎宛書簡に「茶業組合出張員」(A)
明治36(1903)01 浅井忠に年賀状を送る(A)
明治36(1903)02 パンテオン会晩餐会に参加(佐野老):和田英作(A)
明治36(1903)02 商品陳列館標本を購入送付(A)
明治36(1903)03 巴里玉天会に参加(茶老):和田英作(A)
明治37(1904)01 年度限り出張所廃止 帰朝許可(A)
明治38(1905)02 石川半山とパリで会う(A)
明治40(1907)08 パリ、モーブージ通り二十九番地に店舗あり(A)
明治43(1910)04 尾崎伊兵衛・海野孝三郎とパリで会う(A)
昭和16(1941)01 『山本芳翠』に、「先年、死なれて」(B)
作業をしながら薄々解っていたことだが、改めてこうして年譜を造ってみると、同一人物を否定できる明確な矛盾はない事に驚かされる。ベルギー留学は、78年万博の後だった可能性もある。
だからといって、すべてが同一人物であると言う証拠もない。他の、今回取り上げなかった人も、総て年表に入れても矛盾が起きない可能性もある。逆に、山本芳翠と関わった佐野と、庭園の門を作った佐野でさえ、別人だと言えるかも知れない。
とはいえ、これらの作業を通じて、たとえば、浅井忠の「渡欧日記」1900年8月26日に見える「福地氏と博覧会場を見る、織物部に至り、佐野筒井とカフエーを飲み、佐野氏の機械話を聞く」の佐野氏が、一緒に渡航した佐野医師ではなく、繊維機械に詳しい喜三郎ではないか、と推測できるようになったのは収穫である。
簡単に補足するつもりが、またしても思いがけなく長くなってしまった。佐野喜三郎については、結局出自も本業もよく解らないままだが、もし、この年譜にある人物が、一人の佐野喜三郎だとすれば、かなり興味深い人生を歩んだと言えるだろう。
webでこれだけのことが判る時代になったことに改めて驚かされるが、とりあえず、佐野喜三郎を巡る調査はこのくらいで終わりにしておく。