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遠回りの道中で〜西村賢太追影記①〜

はな私が西村賢太先生の作品に出会ったのは、今から丁度一年前である。

当時の私は(今も殆ど状況は変わっていないが)
全くもって仕事が続かず、新卒で入社した会社は1ヶ月、転職した会社も半年で辞めるという暴挙に出ていた。
根が大の労働嫌いにできているのに加え、
社会に放り出されてからあっという間に2連敗を喫した私は完全に心が折れ、無収入にも関わらず転職活動をろくにせず、アルバイトすら探さずに実家に寄生して惰眠を貪るだけの生活を送っていた。

実家暮らしとは言え無職が親からお小遣いを貰える訳がないので金は常になく、気が向いた時にだけ行く日雇いバイトのふざけた日当を抱えてBOOK・OFFに行っては、1冊100円の文庫本を買って家でちびちびと読むのが唯一の娯楽であった。
仕事も金も気力もない自分にとって、本当にそれだけが唯一の娯楽だったのだ。

その日もなんの気なしにBOOK・OFFをぶらついていた。
100円コーナーに面白そうな作品が見当たらず、珍しく100円以外の文庫本売り場を舐めるように見回していると、【苦役列車】という如何にも重苦しそうな、陰鬱そうな作品を見つけ手に取ったが、タイトルだけでなく何やら表紙まで禍々しいではないか。
興味津々で背表紙の右上に書いてあるあらすじを読むと、その時点で私は興味を惹かれた。

これは、何やら自分にとって大切な小説になりそうだ、と。

読書は人並みに好きではあったものの、基本的に読むのは大衆文学や青春もので、純文学と言えば太宰治ぐらいしか読んだことのなかった私は、恥ずかしながらその時は西村賢太という名前を見ても全くピンとこなかった。
先生が芥川賞を受賞し、メディアに頻繁に出ていた頃の私は小学校低学年であったので、存在すらも認知していなかったのだ。

名前も顔も知らぬその作家の文庫本を300円で買い、その1冊だけを家に持ち帰った私は、早速ページを捲り始めた。
すると、今までどんな小説を読んでも覚えなかった感覚が、身体中を一気に駆け巡り始めた。
手垢だらけの表現にはなるが、
身体に稲妻が走る、といったようなあの感覚だ。
面白い。あまりにも面白すぎる。
まさにのめり込むようにしてページを捲り続け、最後まで読み終えた時、言葉にできない初めての感覚に襲われた。

面白い以上の、感動以上の、共感以上の、
言葉にできない感覚に襲われたのだ。
あまりの激情に、涙すら出なかった。
ああ、この一冊さえあれば生きていける。
誇張でもなんでもなく、確かにそう思った。

刹那的な生き方、馬鹿馬鹿しいほど欲望に忠実な姿、恐ろしい程に不器用な性格、その全てに共鳴し、震えが止まらなくなった。

早速スマートフォンでこの作品について調べ、
この作品は「私小説」というジャンルであることを知り、更に愕然とした。
これだけ共鳴できるような人生を実際に経験している人間がこの世に存在しているのかと。
そしてそのまま該作家についても調べると、
既にその作家は亡くなっていることを知った。
しかも、54歳という若さで。

とはいえ、当時は作者本人に思い入れがあったという訳ではなく、とにかく他の作品も読んでみたい一心だったので、次の日から書店に行っては西村賢太作品を買い、耽読する日々が続いた。
どの作品もあまりに面白く、他の作家や作品には一切の興味がなくなった。
しかし、多くの作品は既に絶版しており、作者が亡くなっていることも影響してかなり値段が高騰している。
相変わらず金はなかったが、時に働き、時に誰かに金を借り、時にツケ払いで作品を集め、読み続けた。

最初に断りを入れておくが、私は断じて文学コレクターではない。
もっと言えば、元来収集癖があるわけでない。
読みもしない古書をインテリアとして買い揃える余裕など私にはなかったし、さして興味もない。
が、西村賢太先生の作品は単純に読みたいから買う必要があったし、かと言って図書館や誰かから借りた本で初読を済ませてしまうのは論外(個人的に)なので、どうでも無理をして買っていく必要があった。

神保町の古書肆で3万3000円で売られていた苦役列車の初版署名入り本を見つけた時も躊躇わずに買った。
相変わらず金はなかったので自分で自分の首をしめるようなものだったが、意地でも自分の身銭を切って買った(そもそも高額な小説を買ってくれる人間など私の周りにはいないが)。
苦しい状況で身銭を切るからこそ意味があると思っていたし、そこに自分の熱量が試されているような気がしてならないのだ。
お金がある時に注ぎ込むのは当たり前で、お金さえあれば熱量なんてものはなくても簡単に買い集められるだろうが、それでは意味がない。
つまり、金持ちの道楽では全く意味がないのだ。
無理をすればするだけ、その無理をした分自分の血となり肉となるような感覚があった。

この1年間は西村賢太先生以外の作品は殆ど買わず、読まず、まさにすがりつくように先生の作品を読み耽り、追いかけ続けてきた。
信濃路は勿論、様々な聖地を巡礼し、自己満足な感傷に浸った。
SNSでファンを集め、人生で初めてオフ会のようなものも開催した。
根が極度の引っ込み思案かつ奈良シカマル並に面倒臭がり屋な自分がここまで何かに本気になれたのは初めてだった。

しかし、追いかければ追いかけるほど、
生前にファンになれなかったことが悔やまれ、
いくらお金を払ったところで先生に直接会い、思いの丈を伝えることのできないこの状況を慊く思った。
サイン会やトークショーなどに行き、
あなたの作品に救われ、あなたのおかげで生きてこられたんですと伝えたかった。
孤独が滲み出るあの笑顔を、直接見てみたかった。


とは言え、会えないからと追いかけるのを辞めるわけにもいかない。
先生だって、出会った時にはこの世に存在しない藤澤清造を慕い、尋常ではない熱量と努力で追いかけ続けていたのだ。
なれば、この私が出来ることはただ一つ。

それは、石川県七尾市にある先生のお墓に行き、墓前で今までの感謝を告げることだ。

先生のように毎月通うことは出来ないかもしれない。
しかし、まずは一度行ってみなくては話にならない。
元日の地震の影響で墓は倒壊し、お寺もかなりダメージを受けているのはニュースで知っていたためこのタイミングで行くことは正直かなり迷ったが、それでも行くことを決めた。
自分勝手だと、痛いファンだと言われようとも、先生に会って話したいことが沢山あったのだ。

問題はやはり金銭面であったが、
七尾行きを誘ってくだすった方がお金を貸してくださり(本当に情けない話である)、尻に火がついた状態の私は、5泊6日の治験アルバイトに申し込み、囚人のような生活を送ってどうにか金策に辿り着いた。

なんの気なしに手に取った苦役列車に衝撃を受け、救われてから丁度一年。

この一年間の感謝を伝えるべく、私は石川県へ向かった。

続く

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