見出し画像

映画:「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち を見てきて忘れたくないから書く。

ずっと涙堪えながら見てました。
ぜひ、お時間ある方は見て欲しい、、。

まず、東日本大震災の甚大な被害の中のほんの一つということがとても悲しい。
上映後に話してくださった登壇者の方が、実際に小学校を訪れた際に途中で寄った道の駅にて、大川小学校の文字を見たご老人方が「震災なんだから仕方がないことなのにね」と話していたことに衝撃を受けたとお話ししてくれました。地元の方でもそう思ってしまうのかとありえないと思った後にすぐ、その方々も大切な方を失なって、なんで大川小学校のことだけ、、と思っていた遺族の方々だったのかも知れない、そして決して味方だけじゃない環境で闘い、暮らしていくご遺族の方々に思いを馳せると、ただただ辛くて悲しくて苦しくなりました。

震災後の学校や教育委員会等行政からの説明会の実際の映像が映し出されます。校長先生も、生徒と一緒に避難をした教務主任の先生も、教育委員会も、皆さんの顔が映っています。テレビでは見たことがない映像でした。こんなに辛い出来事が全てが現実だったってことを実感して、私は本当にその場にいるような気持ちになって、やっぱり涙が堪えられませんでした。

大人が涙を堪えながら、守れなくて申し訳ありませんでしたと頭を下げます。でも、大切な子供を、助けられた可能性が高い(※)中で失ってしまった親御さんからしたらそんなのどうでもいいんですよね。頭を下げられたって謝られたって、大切で大切な子供は戻ってこないんだから。

どうして、なんで、、って悔しい思いが痛いくらいに伝わってきて、本当に胸が苦しくなりました。
涙を必死に抑えながら飛び交う怒号も、それに対して泣きながら頭を下げることしかできないことも、テレビで知った気になってただけで、私は何にも知らなかったって思い知らされました。

はっきりとした説明がない、証言が変えられている、第三者委員会の結論等を鑑みて、ご遺族の方々は裁判を起こすこととなります。「裁判をしたかったわけじゃない」「裁判なら、司法が明らかにしてくれるんではないか」と、ご遺族の方々にとっては本当に最後の選択肢だったのだと知ります。
しかも、裁判はご遺族が、つまり親が亡くなってしまった子供に対して、子供に金額をつけて責任を問うような形になるとのこと(ここはもっと詳しいことを知りたいなと思った)。弁護士さんも、親御さんにそのような酷なことをさせたくないと裁判をするべきか悩んだと打ち明けていました。誰も自分の子供をお金になんて代えられない、、だけど裁判のためにって悩んで泣いて苦しんだのに、世間にはお金目当てだってバッシングされるんです。もちろん、東日本大震災の被害は大川小学校だけではありません。「なんで大川小だけ?」って声も沢山あったそうです。

証拠等は弁護側が全て用意しなければなりません。ご遺族の方々が亡くなったお子さんの代理人として、弁護人として、一人一人が調査検証し、証拠等を集めていきます。会見等で何度も弁護士さんが言っていましたが、親御さんたちの努力がなければ、裁判の結果も変わっていたと思います。

私が印象に残ったことは、実際に校庭から裏山まで逃げるのにどれだけの時間がかかるか検証した時のことです。一人のご遺族の方が雨の中何度も走って山を駆け上ります。次は違うルートで検証となっても休憩せずに走り出すんです。その方は、がんの手術を受けて間もないのに。亡くした子供のために、自分の身体なんて二の次なんですよね。
全くの赤の他人だから別にって思うかも知れないけれど、私が何かできたことってなかったのかなって無力に思いました。

画期的な裁判結果として、原告側の勝訴となりましたが、ここがスタートだとご遺族の方々は仰います。これからこの判決をどう見て、考え、行動していくのか、、いつ大きな地震が起こるか分からないこの国に住んでるんですから本気でみんなが考えないといけないんですよね。

震災でお子さんを三人も亡くされ、今回の裁判にも懸命に向き合ったお父様は、ほとんど飲まなかったお酒を沢山飲むようになったり、疲労からか心臓の手術も行ったそうです。震災当時は死にたいと思っていたそうですが、奥さんがいるから死ねないと必死に生きてこられたそうです。
奥さんはこんな酔っ払いに来られても子供たちが困るからあっちの世界に行くのはやめなと笑いながら言いますが、「でも、子供たちがあっちで迷ってる気がするんだよ」って、これまでの映像には映らなかったどこか遠くを見つめるような表情をしていて、ご遺族の方々の心が少しでも癒されるにはどうしたらいいんだろうって、何もできない自分にもどかしさを覚えました。

当時の市長が、もし、自分の子供が大川小で亡くなった子供だったらと問われた時、「自然の宿命」って言ったんですよね(その時の映像もあります)。私、知らなかったんです。こんなことがあったなんて。何も知らない、知ろうとしない私も、ご遺族の方々からしたら同じなのかなって。もちろん当事者ではないから全ての気持ちを共有して生きていくなんてことはむずかしいんだけど、せめて誰かの悲しみに寄り添える自分でありたいなと思いました。

ここで私のあの時を振り返ってみました。

東日本大震災から12年です。東京に住んでいる私に起こったことを書いておきます。
当時私は中学3年生。学校の教室で卒業式に親に渡す手紙をクラスみんなが席に座り書いている時でした。
教室が大きく揺れて、先生は立っていられなくてだけど壁から落ちてくる時計とかを必死で抑えてました。机の下に隠れろって叫んでました。同級生にダウン症の子がいて、私の後ろの席でした。彼女はパニックになってしまって机の下に隠れられません。大きく教室が揺れる中で、私を含め彼女の席の周りのみんなで大丈夫だよって、ちょっとしゃがんでみよって、怖くないよって、、怖いけど怖くない顔をしてみんなで頑張ってました。
校庭に逃げて何が起こってるのか分からなかったけど、携帯でニュースを見て青ざめている先生の顔を見てとんでもないことが起こっているんだって思いました。

学校の近くを走っているはずの電車は線路上で停まっていて、雪でも台風でも止まらない電車なのにって、そこで生徒たちは恐怖を感じ始めたことと思います。集団下校の中、線路を電車から降りた人がゾロゾロと歩いていて、閉まりっぱなしの踏切を持ち上げて(想像以上に本当に重かった、、中学生3.4人くらいで持ち上げて、やっと屈んで通れるくらい)、家に帰りました。

テレビから流れるのは、あの時代を生きた人なら決して忘れないであろう津波の映像でした。恐怖を忘れようと逃げていたのでしょう。揺れで倒れた水槽から流れた水を何も考えず処理しました。私の母は役所で勤めているので、一瞬家に戻り私の無事を確認してから避難所開設のために出かけ、遅くまで帰りませんでした。
でも、東北の人たちのことを考えたら、、全てがへっちゃらだって思ってました。

それから計画停電の真っ只中で卒業式もできました。たぶん反抗期だったり思春期だったりの同級生もいる中で、暗くて寒い中でもみんなで集まって式ができたことに、感謝と申し訳なさの気持ちを持っていたと思います。



あれから、生きていなければ経験しなくて済んだ辛いことも苦しいこともいっぱいありました。でも、生きていたから楽しくて嬉しくて幸せな時間もいっぱいありました。
だから、いくら災害だからって、亡くなってしょうがないなんてことはないんですよね。みんな私のように成長して、バイトめんどくさって思って、テストで赤点取って補習して、受験勉強頑張って、大学で好きなこと勉強して、バイトやっぱりめんどくさって思って、友達と旅行して、就活辛すぎって全部投げ出したくなって、会社でお局にいじめられて友達と一緒に酒飲んで悩み吹っ飛ばすくらい笑って、ってそんな毎日を過ごして欲しかった。
生まれ変わったらお父さんとお母さんにもう一回出会って、楽しく笑って人生を過ごしてほしいです。そう祈ってます。

今後私がどう生きていこうかとかそういうことなんでも、なんかこの映画を見た後だと上っ面だけのものに感じてしまうので敢えて書きません。ただ一つ書けることは、忘れずに生きていきたいです。



(※) 大川小学校の裏山に逃げていれば助かった可能性が高いとのこと
→実際に現場に行かれた本映画のプロデューサーさんも、登壇者の方も仰っていましたが、皆さんが想像してるより裏山までは本当に近いそうです。
実際に検証すると、1分ちょっとあれば一時避難していた校庭から津波到達地点より高い場所に逃げることができたんですよね、、その検証映像を見ると本当にあっという間に裏山に逃げることができるって分かります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?