アルバイトを買った話

アルバイト(独)Arbeit
①仕事。労働。
②学問上の労作。著作。
③学生などの内職。バイト。
(講談社「和英併用 現代実用辞典」)

意味の通り、多くの学生が経験する小遣いないし学費稼ぎのアルバイト。
今回は私の初アルバイトとアルバイト先の狂った店長についてお話したい。

私が初めてアルバイトをしたのは大学1年生になりたて、まだ雪のとけきらない春。
わりに遅咲きなデビューだが、別段高校時代金策に困っていなかったわけではない。
家は貧乏だしお小遣い制度はないし親戚もほとんどいないのでなけなしの貯金で地味に遊び、携帯代も払えないのでずいぶん長く持っていなかった。(友達とハンバーガー食べに行く金がなくて当時自ジャンルだった戦国無双3Zを売ったことから戦犯と呼ばれたこともある)
にも関わらずなぜアルバイトをしてこなかったのかというと、単純に言って
「働かせてもらえなかったから」である。
落ちるのだ。もう、書類選考で落ちる。
二十は落ちた。
当時ワンオペブラックで誰でも採るとさえ言われていた某牛丼チェーンすら落ちた。
なぜあそこまで落ちたのかは今もって謎でしかないが、顔面の問題なのか覇気の問題なのか……。真面目そうな風貌だし声はデカかったと思うんですけど。
そんな折でした、運命の初アルバイト先と出会ったのは。

心機一転大学性生活、今度こそアルバイトを!
と意気込み応募したコンビニで落ちた帰り、何気なく見た求人チラシ。
「オープンスタッフ募集 1名 18:00~22:00 週3日 接客、軽作業 時給××円」
本当にその程度しか書かれていない簡素なチラシ。
なんの店かさえ書いていない。
どうやらチラシを貼っているドアが店舗入り口らしいので看板を見たが、
店名さえ書いていないありさま。暖簾のひとつもないのには驚いた。
しかし、バイトに落ち続けた私にはこの得体の知れなさが逆に光明に見えた。
店の名前も何の店なのかすらわからない店の求人に電話したのは次の日のこと。

冗長になってきたので結論から言うのだが、私はこのアルバイトを店長と喧嘩して辞める、というか売り言葉に買い言葉でクビになる。
私もメンタルヘルス崩壊女(当時はまだ発症してない)だけど、店長も狂ってたからだ!

「求人のチラシを見て連絡させていただいたのですが……」
電話をかけて帰ってきた言葉は
「ああ……。それ、なァ。じゃ、明日の16時。来れる?」
文章では声色までお伝えできないのが苦しい。スカイプとかで形態模写したい。
もう、この時点で「「「ヤバい」」」予感のする声だったのだ。
でもここまで来てひきさがれねぇ。

翌日夕方、看板すらない店の戸を開けた私を待っていたのはカウンターに座った男だった。
年のころは30前半か半ばくらいだろうか。椅子に座るというより寄りかかるようにして、入り口のほうを見ていた。
焼き鳥居酒屋特有の、調理場とカウンターを隔てるプラスチック板。
脚の高い木の椅子。巨木をそのまま切り出したような味のあるカウンターテーブル。
男は室内にも関わらず黒いニット帽を目深に被り、目の色から伝わる表情を隠していた。
タバコの灰が灰皿にトントンと落とされる。
短くなったタバコを挟む中指に入った星の入れ墨に思わず目が行く。
無精ひげのある口がシニカルに持ち上がり、けだるく開かれる。
「ボーッと突っ立ってんなよ。バイト希望だろ? 入れよ」
これ、ヤバくないと思う人間いるか?
どう考えても「「「ヤバい」」」店に面接に来ちまったと5秒で思うだろ。
こんな描写が必要なこと日常にほとんどないし、そのポーズで待ち構えてる奴はまず正気じゃないだろ。ここはどこだ?現実なのか?
男は自分の前の椅子を引いて「ここ、座って」と顎で促してきた。
もう明らかにヤバさを感じている。すでに帰りたい。マトモな空間じゃない。
しかしそう言われては「間違えました」と言って帰るわけにもいかぬ。
おとなしく腰掛けた私に、男はまた唇の端を持ち上げるだけのシニカルな笑みを浮かべた。
「お前、バイト受かんねぇだろ」
「えっ。いや、まぁ、確かに何件も落ちてますが……」
「歳は? 大学生だろ? 履歴書、出して」
おずおず履歴書の入った封筒を差し出すと男はタバコを置いてそれを受け取った。
近づいてきた右手の中指に入った星マークの入れ墨が黒でなくて紺色なのに、私はその時気が付いた。
「お前、ウチで雇ってやるよ」
履歴書はまだ封筒に三つ折りで入ったままである。見てさえいない。
「俺ァ、店長の山城。店長とか山城さんとかじゃなくて、ヤマって呼べ」
これがヤマこと狂った店長との出会いだった。
ヤバい。逃げたい。 もうそれしか考えられなかった。

しかし三日後、私は店の前にいた。
ヤマは明らかにヤバい。あんな中二病感ビシビシの30代、ヤバくないわけない。
今回は割愛するが中学時代バリバリの邪気眼電波女として自分に宿った熾天使(セラフィム)と会話してた私をもってしても中学卒業までにはなんとかそのいなたいヤバさから立ち直れたのに、ヤマは30過ぎてもあの特有オーラを維持している。
絶対関わらないほうがいいのだが、しかし背に腹は代えられなかった。
大学生になったら何に変えても携帯電話が必要なのだ。
金がほしい。その一心の私に救いの手を差し伸べたのはヤマなのだ。
乗りかかった舟である。たとえ泥船でも乗ってやるつもりだった。
しかしながら、乗った舟は泥舟ではなくてなんかもっとヤバいものだったのを私はまだ知らない。

ヤマの店は焼き鳥居酒屋だった。
各地を食べ歩いて見つけたこだわりの地鶏を使った串を提供するのだという。
「……ヤマさん、この店看板はないんですか?」
初出勤日、聞かずにはいられなかった。オープンして一週間は経っていると聞いたのにまだ看板も暖簾も見当たらなかったからだ。
「お前、バカ か?」
ぶつ切りの鳥もも肉を串に刺し刺し、こちらを向いたヤマは少し語気を強めてそう返してきた。
「なんの店かわかんねぇけどなんかを感じて入ってくる、そういう客だけでイイんだよ」
わかってねぇなァ。 ヤマはまた肉に視線を戻す。
「はぁ……。でも店名もわかんないですよ」
「別にメシ食うのに名前なんか関係ねェだろ。俺らだけがここが『ヨキジ』だ ってわかってりゃいい」
私はここで初めて自分が働くことになる店の名前を知った。面接でも言われなかったので。
俺らだけがわかってりゃいいっていうか、店長しかわかってないんですけど。
唯一従業員の従業員もわかってないんですが、と言いたいのをこらえ私はジョッキを磨いた。

三回目の出勤。
客が来ない。初回も、二回目も来てない。
私がシフトじゃないときは来たのか、ヤマには聞けなかった。
ここ潰れんじゃないか? そう思いながらとりあえず、誰も出入りしないので汚れてるわけもない床を掃き掃除していた。
掃き掃除の次は拭き掃除。これは何もしてなくても埃が積もるしやる価値があって良い。
カウンターテーブルを拭いている間、ヤマは手持無沙汰なのか私にぽつぽつ話しかけてくる。
聞くに、私が拭いているカウンターは、最初の見立て通り巨木をそのまま切り出したもので継ぎ目がないのだという。
ヤマは居ぬきでこの居酒屋店舗を借りたのだそうだ。前は昔ながらの赤提灯だったらしい。
今の店内は、このあたりの店にしてはオシャレだ。
常連しか集まらない古い居酒屋という感じは払しょくされている。
壁の棚にはレコードが飾られていた。
「ヤマさん、ストレイキャッツすきなんですか」
吠える虎がプリントされた紙のパッケージに入ったレコードは80年代ロカビリーの代表格ストレイキャッツのものだ。
「……別に。俺ァ、猫が好きなだけ。で、やってんのはロカビリーじゃなくてロックだ」
ヤマは中指を突き立てて私にファックポーズしてきやがった。
入れ墨の星が逆さ五芒星になる。
おお、悪魔信者かよ! とあまりの強いサブカル臭気にもう卒倒寸前。
ロッカーなのも予想通りすぎて、もうここまでくると「次はなにを見せてくれんだ?」という気持ちになってきていた。

3回目の出勤にしてやっと店名を知ったような私は知らないことだらけだった。
ヤマが仕事を教えてくれないからである。
「俺ァお前に指図しねぇ。考えて動いて、覚えろ。そんだけだ」
カッコイイ言葉だ。
でもこれはヤマが私とおんなじ仕事をしてて、見て盗めとかそういう時に使うのではなかろうかと、社会人になった今も思う。
ヤマは仕込みをしてるし厨房担当なわけで、私のお手本はしてくれない。
そして私は全くの未経験であって、考えるための基礎すらないのだ。それにこの店の物の場所も料金体系も何もしらない。ヤマもそれを織り込み済みで雇ってくれたのはなかったのか……。
とりあえず、客が来ないので汚れることもない食器をとにかく磨いた。
考えた結果出せた仕事案がこれと掃除しかなかったから仕方ない。ヤマも何も言わなかったので、多分間違いでなかったのだと信じたい。
ヤマは基本的にぶっきらぼうで、楽しくおしゃべりするタイプではない。
話したところでまるで少年漫画のクールな先輩戦士みたいなことを言うだけだ。
気まずい時間。せめて来てくれ。客、頼む。
私と同じで看板がなくても入るアホ、通りかかってくれ頼む!
もう神に祈り始めた時、ガラッと店の戸が開いた。
「あっ、あっ、い、いらっしゃいませ!!!
コミュニケーションに問題があるからというよりあまりに不意打ちだった初来店にあいさつすら噛む私の脛をカウンターの下でヤマが軽く蹴っ飛ばす。
「ヤマ! 来たよっ!」
客は戸を開けるや否やヤマのいる調理場をのぞきこんだ。
こげ茶色のボブカット、色白な美人で、あの帽子をかぶっていた。
あの、路上でひとり弾き語りしてるバンド青年の前にたった一人でしゃがみこんで「私だけはあなたの魅力、わかってる」という顔してる女がかぶりがちな耳当てと一体化してるニット帽だ。
直感で思った。「あ、これ絶対ヤマの彼女だ」
「お前、来んなっつったろ」
「今日アルバイトの子来てるかと思って。来ちゃった」
私のほうを向き直った彼女は「ヤマの彼女です。この人、言い方きついけど、見放さないで一緒に働いてやってね」とほほ笑む。
ぴょこっ! っと音がしそうなかわいい動作で差し出された箱が菓子折りらしいと気づくのにちょっと時間がかかった。
ヤマはバツが悪そうにポリポリと頬をかいている。
私が出勤4回目で初めて出した飲み物は、店長の彼女へのオレンジジュースだった。
もう何もかもが「ベタ」すぎて、自分が妄想の世界に迷い込んだんじゃないか、気が狂ったんじゃないかと思わずにはいられない。
家に帰って開けてみると、菓子折りはかわいらしいマカロンだった。
あるのか、こんなベタなことが。
ヤバそうなバンドマンの彼氏に世話焼きでかわいい彼女という組み合わせ、こんなベタにくるのか。

客が来なかったのはその最初の頃までだった。
徐々に周囲に「最近できたのは焼き鳥屋らしい」と広まったのか客がぽつぽつ来るようになった。
私はやっとこさ給仕という仕事を与えられ、忙しく食器洗いする大変さも味わうことができた。
ヤマは相変わらず仕事のイロハを教えずにまず戦地に飛び込ませてから「なんでそんなのもわかんねェんだよ。こうだよ、こう」と私の肩にアザができるほど殴ったが(従業員を殴るのはどうかと思うのですが、被虐待児というのはこういう時こういうもんなのだと納得してしまうのだ!)まぁ給料はもらえるので、我慢していた。
最低賃金で働くバイト初経験に飲食バイトのマニュアルを自主作成するほどの情熱や知識はないのだ。
そんな折だ、事件が起きたのは。
「気にくわねぇなら、二度と来てもらわなくても構わねェんで」
ヤマがほろ酔いの客にビッ! と新品の串を突き付けた。
せっかく来た客を追い返してしまったのだ。
理由はマジで大したことがないので、世間知らずの私も頭の上にハテナが浮かびすぎて脳が破裂して大気圏まで脳漿が噴き上がった。
曰く、ヨキジになる以前の赤提灯の常連だったその客が「前の店はボトルキープしてくれたけど、兄ちゃんとこはしてくんねぇのかい。テレビも、前の店はおいてたけどおかねぇのかい」と何気なく言ったのが癇に障ったのだと。
それで追い返すか? ふつう?
あんまりな理由だったので、思わず「そんな理由で帰らせたんですか?」と言ってしまった。
その時のヤマの目と言ったらなかった。
ポカンとした私を睨んで「俺ァ、わかる奴だけくりゃいいと思ってんだ。わかんねェ客は客じゃねぇ」と言う。
私は黙ってしまった。気を悪くして帰った客の飲み残したビールを捨てながら、コダワリの店長ってめんどくせぇな……とばかり思っていたことを思い出す。
思えばその時すでにヤマの意味不明さと私が合わないのはわかっていた。

働き始めて二週間ほど経った。
店にはあいかわらず看板がない。しかし、暖簾がついた。
小さく端っこに「ヨキジ」と店名とキジトラ猫の絵が入った赤い暖簾だ。
店名のヨキジというのはてっきり鳥のキジかと思っていたが、猫のことだったらしい。
ヤマは多くを語らないので推理のように店の情報を埋めていかねばならなかった。
私が店についてふつう最初に聞いたら教えてもらえるようなこと(お通しはタダなのかとか予約は受け付けているのかとか)を都度問題が起こってからやっと聞かされ知ることができるようになっている間に、店に取材が入った。
こだわり店長の焼き鳥はロック仲間の伝手をたどって雑誌で紹介されることになったらしい。
店にはますます客が来るようになるのではないかと予想された。
私も今までのように質問しても教えてくれないヤマに負けてゆっくり自分で考えている暇がなくなってきた。ヤマにガンガン質問をした。
ヤマも今日のおすすめの一品をメニューに書くようになり、私はそれをおしぼり渡しのときに紹介することになったのだが、「これどんな料理なんですか」と聞いた私に対して「テメェで金払って食って確かめな」と言われたのは今もって納得いかない。
というかほかのメニューも正規料金で自腹で食って味覚えて客に紹介しろと言われてたの今も納得いかねぇ。
金がないって言ってんだろ!!!!!!!!!!!!!!!!!
このバイトのあと飲食はほとほと懲りたので、他もこれが当たり前なのかは知る由もない。

われわれが出会ってそろそろひと月。
いろいろな無駄話をした。(客が来ないので暇なのだ)
基本的にヤマがロック仲間としたヤンチャ武勇伝だったが、法に触れるものもあるのでここにおいては割愛する。特定されたらヤマ捕まっちゃうからな。
私はヤマの武勇伝が嫌いだった。
なんでカツアゲまがいのガリ勉狩りや未成年飲酒の話(割愛したのはこれよりもっとひどい部類に入る)を延々語られ「テメェは、そういう冒険が足んねぇのさ。だからバイトの一個も受かんねェんだ」とか言われなアカンのじゃと毎日思っていた。
でも、私はまだ見ぬ給料日というのに強い執着があった。
地方の最低賃金である。週に3回のバイトである。大した額にはならない。
しかし、初めて受かったバイト。初めての給料。
ここで辞めるわけにはいかなかった。石の上にも三年! と思ってひたすら相槌を打った。
彼女からもらったマカロン(これも生まれて初めて食べるものだった。中身の入ってない最中だと思った)を食べていたのも私の髪を引っ張る一因だった。

ヤマはよくよく私の肩を殴った。
焼き鳥串の渡し間違えた時、生ビールをビールサーバーから注ぐのに失敗した時。
土鍋をうっかり割った時のパンチはかる~くスキンシップとかそういうのを超えていた。
よくアザを作るので、私は女の子なんですけど……とムカムカと怒りがわいていた。
それに加えて我慢ならないのが、ヤマの口の悪さ。
ヤマは私の名前をあまり呼ばなかった。覚えていたのかも怪しい。履歴書見てないから。
基本的に「お前」。次いで「バカ」、それに「ブス」が続く。
なんなんだこの男は、とさすがに思った。
雇用者とか関係なく、ふつうまだ会ってひと月も経たない赤の他人を罵倒で呼ぶか?
あとヤマの仲間も口が悪いので、飲みに来たとき私のことを「オッパイ」と呼ぶのがふつうにセクハラだろと内心イライラしていた。
店員に「オッパイちゃんさぁ、オッパイ揉むのはサービスに入んねぇの?」と聞く男はね、何やってもだめ! バンド解散しちまえ!
「なァ、お前よぉ。近所のババアにあいさつ、すっか?」
「しますよ。ゴミ出しの時とか顔合わせますから」
「バカだな。お前ァだからバカなんだ。そういうのが死ぬタイプなんだよ。近所づきあいなんてするバカが死ぬんだ」
「ヤマさんはあいさつもできないんですか」
「誰にでもへーこらすんのはプライドのねェ奴がやるこった」
「……あいさつと媚び売ってるのは違いますけどね。違いわかんないんですか? 常識ないですよね」
「あ? んだとコラ」
「いーえ! 別に! ヤマさんがそうなさりたいならそうなさったらいいんじゃないですか!」
クビになる前日のこの会話はほとんど喧嘩だった。
私の声は甲高く、コロ助に似ている。
ヤマの声はキムタクをめちゃくちゃ気だるげにしてそこにペースト状にしたコナンのアカイシュウイチを混ぜて森進一を足したような感じ。
その二人が語気を強めて言い合っているので、店の外にまで面白声オーラが出てたのかその日は客がひとりもこなかった。

とはいえ、クビになったというか辞めてやったのはそういうくだらない喧嘩が理由ではない。
喧嘩、些細な会話の積み重ねもあるにはあるのだが、決定的な理由がある。
給料だ。
待ちに待った給料日。
個人経営のちいさな居酒屋では店長から給料袋でもらうのだと私は初めて知った。
「おら、今月の」
帰り際、どうでもよさそうにヤマから手渡された封筒が私には輝いて見えた。
ウキウキしながら家に帰り、さっそく給料袋から汗と涙と青アザの結晶を取り出す。
時給××円、週に3回だから……。
計算して出た金額は思いのほかに大きく感じる。
もう一度初任給をかみしめようと、一枚二枚とお札を数える。
数えるのだが、そのうちにどんどん私の首が斜めになっていく。
「……合わないな」
合わなかった。どう数えても8000円は足りない。
何度も計算したが、実際渡された紙幣より給料は多いはずなのだ。
恐る恐るヤマに電話をかける。
「あの、給料が計算額より少ないんですけど……?」
電話の向こうのヤマは「ああ」とあのシニカルな笑みを言葉の端ににじませていた。
「天引きしといた」

私の給料は天引きされていた。
全く知らなかった。
ヤマが「何回失敗してもいいから客いねェ時に生ビール練習しとけ」と唯一指示してくれた練習が普通に一杯失敗ごとに正規料金で給料から引かれていたことを。
不慮の事故で割れた土鍋を買い替えるお金が私の給料から引かれていたことを。
「ん。食え」と出されていたまかないが普通にお金とられていたことを。
私がヤマに罵倒され、客にオッパイと呼ばれ、時にアザができるほど殴られて得た給料はどう考えても説明義務がある事柄によって知らぬ間に引かれていた……!

電話口でヤマが「来月からよォ、俺のオンナが手伝いに来っから、お前のシフト減らすか、来ねぇことにするか悩んでんだけどよォ」とモッタリした声で問いかけてきて我に返った。
私は「もう辞めます!!!」と言って電話を切った。
それで、店に置いてたサンダルも引き取りに行かずにそれっきり連絡を取っていない。

私の初めてのバイトはほとんどハウルのセリフに集約される。
「面白そうな人だなぁと思って僕から近づいたんだ。それで、逃げ出した。恐ろしい人だった……」
最初からどう見てもヤバい店長だと思ってたのだ。
途中もずっとヤバい店長だと思い続けていた。
なのにひと月働いてしまった。完全にひと月無駄にしたと思った。
無駄に時間を使い、無駄に厳しい環境に身を置き、しないでもいい苦労をした。
あと肩に青アザもできたので寝返り打つたび痛い。
なのに給料から8000円引かれてる。薄給なので8000円と言ったらかなり大きい。

最初は面白ヤバい店長について面白く何か書こうと思ったら、書いてるうちにイライラしてきてふつうに愚痴になってしまったことをお詫びしたい。
しかし、みなさん、この店は現実にあるのだ。
さすがに店長の名前や店名は変えたにしても、今もふつうに営業していて食べログでも結構いい点数稼いでる。(むかつく記憶に邪魔されて書くのを忘れたが、料理は確かにおいしいのだ)
これからアルバイトというか仕事を始める人は、お店はよく選ぼう。
・店長に入れ墨が入ってる
・すぐ殴る
・口が悪い
・仕事を教えてくれない
・給料をなんの説明もなくいろいろ理由をつけて天引きしてくる
これらに当てはまるお店は絶対にやめよう!
たとえ何十件面接に落ちても、店長の彼女がマカロンくれても!
きっともっといいところがある。もっとマシなところがある。
「あっ、ヤバいだろうな」と感じ取ったら、その勘を信じるべきなのだ。
石の上にも三年。ありゃ嘘だ。

ちなみに、私はその後個人経営にも飲食にもほとほと懲りて、別のバイトを始めた。
無面接のイベント派遣スタッフだ。
高時給で仕事内容も行く現場ごとに変わるのでマニュアルを覚える必要も継続する人付き合いもない。
このアルバイトは大学を卒業するまで続けた。
携帯料金を払うには十分足りたし、貯金もできた。
ヤマのところでマジで「買ってした苦労」がクソの役にも立たない職場だった。


(追記)
とまぁ、これを書いたのが今から一年ほど前。
最近のヨキジであるが、建物の老朽化のためビルごと無くなっていた。
ヨキジはどこぞかへ移転したらしい。しかし、新店舗への張り紙もないのでどこへ移転したかは杳として知れない。
ヤマは言うだろう。
「ついてきてぇ奴だけニオイを追ってついてくりゃいいのさ。猫みたいに」

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