生きるための道標
彼女が逝ってしまってから、WEBを徘徊し、本を読んだ。
こんな辛くて悲しくて苦しい出来事なのに、世界のどこにも『こうしたら良いよ』とか『こう生きれば良いよ』とかのアドバイスが見つからない。
結局どこを探しても都合の良い答えは見つからない。それは今から考えれば当然なのだ。
だって誰にも当てはまる解決策なんて無いし、答えは人それぞれ、人の数だけ有って、ひょっとしたら無くって、最終的には自分の中で折り合いをつけるしか無いんだ。それが何かは分からないのだけど。
と言っても毎日が辛くて辛くて辛かったので、スマホのメモ欄に自分の助けになるような言葉をメモって、事あるごとに見返して唱えた。とにかく何かの道標が欲しかったのだ。いくつかをここに残してみる。
妻と次女を守る
まんま。とにかくこれが大命題としてトップ固定で置いておいた。
何故、どうしてばかりでは彼女が浮かばれない
どうしてもリフレインしてしまう問い。これを止めなければと思った。
可哀想と思うのをやめる
以前にポストした理由による。
仕事のプレッシャーは切り分ける。 自分のご機嫌は自分で取る。
なんでもかんでも彼女の死と結びつけるのは止める。
自分に責任は無いと唱える
紙に書いたり口にしたりすると良いらしい。良く目にする文言だけど、子供を失った親に限って言えば、全く責任が無いとは言えないと思う。思いたいだけかも知れないけれど。どうしても辛くて壊れてしまいそうな時だけ緊急避難的に言葉にした。
理解できないと理解すること
自死遺族の集会に通ってみた時期、精神分析、育児や創作を通して自分と向き合い続けたこの10年で学んだこといろいろ。
— 宇多田ヒカル (@utadahikaru) August 21, 2023
死に正しいも正しくないも自然も不自然もない。
何かをすると決めた人間がそれを実行するのを周りがいつまでも阻止するのはほぼ不可能。…
宇多田ヒカルさんのツィートから。内容を唱えやすい言葉に込めてくれたのは流石歌姫だなぁ、と。かなり助かった。他の内容に関してはひとそれぞれだから、触れない。それで良ければそれで良いのだ。
亡くなった人の生き辛さを遺された人たちで分け合ったのだ
実は、この言葉に一番救われた。あぁ、自分はまだ親としてやることが残っていたんだなぁ、って。勝手な想いかもしれないけれど。
生きているのであれば、生きているその子を愛しなさい。死んでしまったのであれば、死んでしまったその子を愛しなさい。
Rayさんのnoteをキッカケにたどり着いたブッダのエピソード。親としてやることは変わらないんだなぁ、って。
ブレインフォッグに因われない
何故、どうしてが始まると、その考えに思考が占領されてしまって脳に霧がかかってしまったようになって他の事が考えられなくなる。生命に危険が迫った時の脳の反応らしいのだけど、日常生活を送るには実に不向きなので、この状態にならないように努めた。
もう一人の自分が当初からずっと囁いていた通り、永遠に答えは分からないし、出るはずも無い。だから自分の中でどこかに落とし所を作って折り合いをつけるしか無いのだ。以前は一日に数回見ていたこのメモも、最近はほとんど開かなくなっている。もう開かなくても良いほど身に染み込んでいるからなのか、遠くなったからなのか。
結局は自分を慰めるため、自分に都合の良い考え方をしているだけ、供養にしたって、生きている人のため、泣くのも自分のため、そう思う時も有る。未だにそう思う時もある。それに関しては答えは出ない。
人生とは“揺らぎ”そのものです。確固たるものは何もない、不安定にさまよい揺れていることそのものが、生きているということ。
この記事にも救われた。
友達が言ってくれた『深呼吸してね』の言葉にも。
だから大丈夫、大丈夫。きっと大丈夫。
あとひとつだけ実用的なメモを。思考がグルグル回って寝付けない時、アイスノンを用意して、冷えピタ貼ってみてください。そんな時って脳が炎症を起こしてるんじゃないかって思うのです。オーバーヒートです。冷やすと良く眠れます。僕はこれでだいぶ助かりました。アホみたいな話ですけどね。実は精神も肉体的な影響をかなり受けているのでは無いかと思うのです。物理的な処置も時に効果的です。良ければ試してみてください。
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