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 あけましておめでとうございます。

 卒論に追われて更新がご無沙汰になってしまいました。すみません。

 さてさて、今日は「母」について少し書こうと思います。かと言って、私の母について具体的に書くわけではなく、ふと皆さんはいつ「母」という存在を認識したのかなと気になったので私が「母」を認識した時について綴ります。

 私が小学1年生で、祖母の家に母と妹とで遊びに行っていた時のことです。その頃の私はひらがなやカタカナを習い終え、漢字の学習に入っていました。私の名前には1年生の学習範囲外の漢字が含まれており、完璧に漢字で書くことは当時の私には不可能でした。それが悔しくて「ママは?ママのはどう書くの?」と聞きました。

 その時気が付きました。私の母には名前があって、漢字があると。

 勿論、私は母を「母」だということはわかっていました。しかし、一人の同じ人間だとは思っていなかったのです。どこか違う次元の人物な気がしていました。しかし、母にも名前があり、漢字があるという事実を知って物凄い事実を突きつけられたような気分でした。

 そんな驚きは当時の私に理解できるはずもなく、こうやって成長した私の脳内に「解せぬ不安」として刻み込まれていたのです。それがなにかの拍子に先日、不安に名前をつけられるようになりました。私が10年以上脳内で勝手に考え続けていた結果でしょう。閃きは突然やってくるものではありませんから。

 そういうわけで、私は(遅いとは思いますが)小学1年生でようやく家族という様相を掴み始めました。母は「母」であっても単なる母ではないということを。それは父や祖父や祖母、私の家族を構成しているもの全てに当て嵌まることです。思考の前進、ですね。

 皆さんはいつそういうことにお気づきになったのでしょう。新年早々、またどうでもいいことに興味を持ち、悶々とする日々を送るこねこでした。

 落ち着いたらまた書きます。それまで、体調にはお気をつけて。

気負うことない、空気のような場所であってほしい。 記事に共感していただけたら、 サポートしていただけると幸いです。