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『シンプルな世界』十


 目の前のとんかつ丼を見つめていると、仁が「そうだった!」と両手を叩いて笑っていた。「もう勝負事なんて暫くないのになんでこいつとんかつ食べているんだ。変わった奴と思っていた記憶がある」
「別にいいだろう。とんかつ美味いんだからいつ食ったって」
「ああ、構わんさ。構わんけどその時の俺にとって強烈だったんだよ」
 元気にはなるけどな、と仁は付け加える。斉田は味噌汁を啜りながら「そういう出会いだったんですねえ」と言った。
「私にもそういう思い出が入学式の時にできれば良かったんですけどねえ」
「いい思い出、ないの?」
「うーん、そうですね。私の場合は親が来ていたこともあって、親と一緒に行動していたら友達がその時できることはなかったっていう感じですね。やっぱり、大学に入れば独り立ちしなきゃいけないですね。たとえ、初日だったとしても」
 斉田の言葉に真実味があった。彼女に友人はいるのだが、表面上のような気がしなくはない。サークルも入ってはいるが、どれほどそこの学生たちと仲がいいのかは和貴には予想しようもなかった。
「でも、いいんです。入学式で男女関係なくいい出会いがなかった分、今素敵な人たちに出会えましたし」
 斉田の幸せそうな笑顔に、男二人は腹の中を悟られないように笑みを浮かべた。 
「俺たちは美里ちゃんよりも早く卒業しちゃうんだから、今のうちにもっといい出会いをしないと」
 仁が最もらしく彼女を誘導する。「俺たちに依存しすぎると、俺たちがいなくなったら美里ちゃん、寂しすぎて死んじゃうんじゃない?」
「そんなに私はか弱くないですーもっと信用してくださいよ」
 そんな仁と美里のやりとりを微笑ましく思いながら、和貴の頭の中は彼女にどうやって別れを切り出すかでいっぱいだった。上の空の彼の様子に気づいているのか、気づいてないのか斉田はご飯を食べ終えると和貴の隣に陣取って腕を絡めていた。いくら冷房が食堂は効いているとはいえ暑苦しいことこの上ない。和貴は斉田が気を悪くしないように気をつけながらさり気なく彼女の腕を解いた。一瞬、斉田が悲しそうな顔をしたものの、仁が「あ、もうすぐ次の授業じゃん」と慌ただしく立ち上がったのでそうした表情もすぐに消えた。
「仁とはこれで今日はお別れだな」
「おう。そんじゃあ、またなお二人さん」
 仁は軽く手を振り上げると、物凄い速さで目的地へ向かって一直線に走り始めた。そんな彼の様子を笑いながら見届けた二人は手を繋ぎ、和貴の「行くか」という一言を合図に次の講義が行われる教室へ向かった。

 講義が終わり、二人はそのまま共にバイト先へ向かった。今日、小林はいない。小林にまだ二人の関係は明かしてはいないが、薄々斉田の恋心に勘づいている様子だった。時々揶揄い、二人が付き合うのに反対だというようなことを匂わせることがあった。小林に何か言われるたびに斉田は困ったような笑顔を浮かべていた。彼女自身、小林から好意を向けられていることには気がついていた。しかし、気づいていることを小林に知られてしまっては彼の攻めの手が緩まらないことに気がついていたため気づかぬ振りを決め込んだ。和貴はいつもそれを横目に涼しい顔をして仕事をしていた。それがまた小林と斉田を翻弄した。
「今日はお客さんどれだけ来ますかね?」
 タイムカードを切ってから前掛けを掛けていると、斉田が和貴に話しかけた。彼は「どうだろう」と空返事をする。
「雨が降ってきましたし、少ないかもしれないですね」
「ああ、そうかも」
 まだ生返事の彼に、気を悪くした斉田は「先に行っています」と休憩室を後にする。それに対しても和貴は「おう」と言ったきり、まるで彼女が出て行ったことに気がついていなかった。店長が入室して初めて気がついた和貴だった。
「うわ、和貴。もう時間だぞ?ここで何しているんだ?」
 在庫のチェックをするために持ったバインダーを和貴の目の前で左右に振る。
「あ、なんか考え事していたらこんな時間に……って、もう二分前か!すみません!」
「考え事も程々になあ」
 店長のアドバイスを背に、和貴は慌ててホールへと向かった。

 斉田が予想した通り、雨のため客足は伸び悩んだ。キッチンのバイトスタッフたちとお喋りしているとあっという間に休憩時間となった。斉田はいつも通り休憩室で食べることにしたが、和貴は全く食欲が湧かず、お持ち帰りにしてもらうことになった。
「美里ちゃん、先に休憩行っておいで。俺は飯食べないから全然後でいいし」
「具合、悪いんですか?」
 心配そうに和貴の顔を覗き込む斉田だったが、彼は「全然」と首を振って否定した。「ただ、食欲がないんだ」
「……わかりました。休憩いただきます!」
 斉田が引き下がると、和貴の元に店長が側にやって来た。
「斉田さんと何かあったわけ?シノー」
 店舗スタッフの人間関係も管理するのが店長の役割だ。いざこざの芽は早いうちに摘んでおかなくてはならない。和貴は言うか言わまいか迷ったが、ふと小林の顔が彼の脳裏を過ぎった。遅かれ早かれ店長には伝わるだろうと判断した。
「店長……実は俺と斉田さん、最近付き合ったんです」
「え?」
 店長の声に店内に少しいた客が一斉に注目するが「申し訳ございません」と縮こまりながら店長が謝ると、すぐに自分たちの会話に戻っていった。
「どっちが告白したんだよ」
「俺です」
「やるねえ」
 肘で和貴を小突く店長だったが、彼は顔色を何一つとして変えない。
「俺が告白した時、斉田さんのこと、好きだったかわからないんです。ただ、彼女が俺に好意を持っていることは勘付いていましたし、一緒に食事した時に言わなくちゃいけない気がしたんです。付き合おうって」
「別に好きじゃなくても付き合えそうなら付き合う人だっているだろう。俺だってそうだし」
 そんな思い悩むなよ、といった風に店長が和貴の肩を抱く。またしても彼は無表情だ。
「俺がフリーだったらそれでもよかったんですけどね」
「まさかお前……浮気?」
「恐らくはそうなると思います」
 それはダメだよ、と店長は和貴の頭をくしゃりと撫でた。
(ああ、せっかくワックスでセットしたのに)
 和貴はそう思ったものの微動だにしなかった。
「ヒューマノイドの恋人なんです」
「ああ、流行っているね。でも、シノーってそういうロボットを欲しがったり、ミーハーだったりしたっけ?」
「いえ、俺自身はそういう感じじゃないんですけどね。友人がヒューマノイドの恋人を所持していて、俺がヒューマノイドの恋人なんてと批判したら、じゃあ、お前は持っているのかと聞かれて。その当時は持っていなかったので、持っていないと答えると。だったらお前に俺を批判する資格はないと言われまして。一理あるなと思い、彼を批判するために持とうと思って注文したのが始まりです。注文した理由が恋人が欲しいとかそういう飢えではなかったので、彼女が到着した当初は全然好きでもなんでもなかったし、本当に動く便利な人形って程度で。それに、どこかでロボットと人間の恋愛なんて気持ち悪いと思ってたんです。このままヒューマノイドと恋愛ごっこする生活でいいのかなって焦燥してた時に斉田さんからの明確な好意を感じて思わず付き合おうだなんて言っちゃいました。これもまた、好きでもないのに。だけど、なんとなく違う気もして。そんな時、友人のヒューマノイドの扱い方を見て、実際彼にもちゃんと扱ってるのかと問われて、俺は彼女と向き合うことから逃げていたことに気がついたんです。そしたら、急激に斉田さんのよりも彼女を優先しなくちゃという思いが湧いてきて……。今夜、斉田さんには別れ話を切り出すつもりです」
 店長は暫く呆気に取られていたようで無言だった。しかし、ようやく事情を理解したかと思うと、「お前、最低だよ」と吐き捨てるように言って休憩室の方へと戻っていった。和貴自身、自分が最低な野郎ということは痛いほど分かっていた。分かっていたからこそ店長に何もかもを打ち明けたのだ。常識人にとってはあり得ない話で受け入れ難いことは重々承知の上だった。店長は人間関係も管理しなければならない。和貴がいてはこの店は荒れるだろう。そう判断した和貴は、帰り際に店長に辞めることを伝える気持ちを固めた。

 閉店作業が終わり、帰る準備をしていると店長が休憩室に入ってきた。一瞬和貴と目が合ったが、すぐに外された。しかし、彼は気にせず店長に近づいた。
「店長、俺を最短でやめさせていただけると助かるのですが」
 店長はギョッとした目で和貴を見た。恋愛関係の縺れ程度で解雇できるほど労働者の立場は弱くない。また、和貴は優秀なバイトでこれまで目立ったミスもへまもしてこなかった。人間関係を良好に保つには和貴を解雇するのが一番だが、彼を解雇できる最もらしい理由を用意することが店長にはできなかった。しかし、本人が辞めたいというのなら話は別である。店長がわざわざ頭を悩ませる必要がなくなった。ただ、店長は驚いていたのだ。ヒューマノイドと恋愛をすることがそれほどまでに大切なことなのかと和貴の正気を疑っていた。
「東雲、それ、本気で言ってるのか」
「はい、本気です。それに、店長がそうじゃないと困るでしょう」
 店長と和貴が無言で見つめ合っていると、店長が先に折れた。
「わかった。認めるよ。最短がいいって言っていたな?契約上はやめる一ヶ月前に知らせてくれなきゃいけないんだが、今回は特別措置だ。次回の勤務がお前の最後の出勤日だ。いいな?」
「はい、ありがとうございます」
 和貴が軽く頭を下げて行こうとしたところで、店長と和貴以外で唯一休憩室に残っていた斉田が割って入る。
「黙って聞いていれば。これはどういうことですか?なんで急に辞めるなんて言い出したんですか、先輩?本当に具合が悪いんじゃないですか?」
 斉田の張り詰めた空気に、店長が慌てた様子で「あ、俺ちょっと本部に報告しなきゃいけないことがあるんだった。ごめんだけど、二人ともすぐ休憩室出てくれるかな?」と言った。有無を言わせぬほどの勢いで休憩室から押し出された二人はそのまま従業員出入口へ向かった。外に出たところで、斉田が和貴を振り返り詰め寄った。
「で?どういうことなんです?私になんの相談もなく急に辞めるなんてどういう了見ですか?私、先輩の彼女なんですよ?」
 相当怒っているようで、彼女の声がキンキンと耳元で鳴った。和貴は眉を潜めながら言う。
「順を追って説明するから、少し話せるところに移動しようか」




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