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「企画書」読書メモ17

Ⅱ.

教育メディア

途方暮族あるいは現代転向論序説(駒沢B通信のみんなへの自己紹介)

「最近分かったのね。自分が子供の頃、親とちゃんと対応というか対決しなかった人って、自分が親になった時に子供ともちゃんと対応しないのね」(p.197)
親子の人間関係のあいまいさを感じた人なら自分が親になった時にも、そのあいまいさを凝視し続けるべきなのだ(p.197-198)

以上、親子関係についての言及。親子関係の影響力は計り知れないという話。それはそうなのかもしれない。だとしたら一個人(親)の裁量で人生を左右されてしまうって本当に平等ではないことで、そりゃ「親ガチャ」なんて言葉も流行るわな、と思う。もっと血縁にしばられない、親子関係にしばられない、豊かな大人と子供の育ちの関係性構築環境の手立てをつくれないものかな。「社会的親」という言葉もある。血縁関係から解き放たれた、多様な大人との交流の中で育つことが当たり前というような仕組みは作れないものか。血縁の親子関係だけに縛られない共同保育の実践をして、そこで育った子供が大人になって映画をつくっている。興味がある人は観てみてほしい。

まあ、この映画を観た私の感想は、かえって血縁家族の重要性が感じられてしまったというか。赤の他人は、あくまで補完的な役割をするしかないのか・・・ということも思ってしまったのだが。

新しい家族の形「拡張家族」の情報発信を積極的に行っている石山アンジュさんという方もいる。

家族の在り方の模索は続いている。

一〇代で反抗しないのはバカだが三〇代で反抗してるのはもっとバカだ・・・・・・という説がある。この説を、単に自分の過去を「若気の至り」というほおかむりで終わらせちゃう臆病者が使うようなやり方でなければ、理解できることがある。つまり、一〇代の時は反抗することでしか表現できなかったものを、ぼくは別のカタチで表現しなくてはならないところにきているからである。(p.198)

「大人になる」ということは、「反抗」したくなったときに、反抗的態度ではなく、「意見」として「表現」「コミュニケーション」する力のことを言うのかもしれない。

ラジカルな言辞を吐くことと自分がラジカルであることは全然違うのだということが分らぬこれら連中は、例えば、新しいムーヴメントが起こると、「新しく起こったという事実だけをありがたがって、くっつきまわる。どうして「新しく起こった」のか、という理由や、自分自身はどう新しく起こるのか、などということは無関係にはしゃぎまわる。新しいものを支持することと自分が新しくなることは別のことではないか。正しい思想に賛成することとあなた自身の生き方が正しいかは別のことではないか。世の中の矛盾を勉強してたくさんたくさん知ることと、あなた自身がその矛盾から免れることができるかどうかは、まったく別のことではないか。(p.198)
レコードを買い集めてウワサばなしに夢中になるだけだったら、レゲエだろうと長渕剛だろうと同じことだ。(p.198)

「ぶらさがっている」「しがみついている」生き方は格好悪い。他人はよく見える?自分は・・・?そうなっていないか・・・?例えば、こうやって読書メモを書いていることも、橘川幸夫さんの文章にただぶらさがっているだけの自分がいるのではないか?と自問自答することが重要。在り方、生き方を、常に問う意識が大事だと改めて思った。

反抗することがファッションだったのかどうかはその人が反抗される側に立った時はっきりするはずだ。(p.198)

一丁前に他人や社会やメディアを手厳しく批判するくせ、言い返されたらだんまりになる人、本当格好悪いよな。

ある日突然、人類として生まれ自分になってしまったわけなんだから、途方に暮れないわけないんだ。自信持ってる人って正直じゃないよな。(p.199)

途方に暮れるという過程を踏んで、そこから一歩踏み出す。それは自信満々ではなくてよいのだな。

ぼくは、若いころ自分の発見したものにしがみつき、スタイル化し、いこじになってるだけの安易な文化人って、大嫌いなのだ。(p.199)

ぶさらがり、しがみつき、これはやってしまいがちだが、やってしまっている瞬間に、せめてやってしまっている自覚をもてるようになりたいものだ。その上で、経験を糧にした変幻自在な、ぶさらがらない、しがみつかない、自分自身として生きれたらいいな。

「敵の中の味方、味方の中の敵」ということに気がついたら、もう、あなたに敵という概念はなくなる。もともと敵と味方なんて西欧人の発想なのね。主体と客体。これまでのインテリは味方を強くすること、すなわち主体を更に充実高揚させることが敵を打倒することだと思ってきた。「敵は殺せ!」という政治のドグマを信じるしかなかった。しかし今こそ、そんなバカげた呪縛から解き放たれたい、と思ったりもする(p.199-200)

西欧人の発想にジャックされてしまった日本人。もっともっとテキトーで森羅万象、八百万の神、みたいな意識、はっきりしない、曖昧さを大切にする、すべてを大切にするような、面白がるような、感じ取るような、排他的でない意識を、豊かに育てていきたいものだ。

なんでぇ、こいつら一〇年前の発見をただ繰り返しのべてるだけで、しがみついてるだけで、しかも生活の裏にかくれて酒飲みばなしか、よせよ、辛いよ、この一〇年間は一体なんだったんでぇ、でもな、こんなこと言う資格、俺にはねぇよな、おまえから見れば俺の笑い顔だって、あの頃から見ればかなり歪んで見えるだろうしな、でもな、よくないよな、こんな事態は、なんとかしようよな、もう酒なんか飲むのやめようぜ(この辺、モロ六〇年代で申しわけないんですが、これもぼくの一面なので)。(p.200)

現在、宇野常寛さんが「飲まない東京プロジェクト」というのをやっているのを思い出した。橘川さんは先見の明がありますな。

結局、バラバラになっちまったのが、原因なんだ。あの頃は、自分の行動や発言は、まわりの友だちに見られていた。見られているということを意識しながら、自分の発言を探したのだ。それがバラバラになり、誰にも見られなくなった。どんどん流されていってしまった。(p.200-201)

コミュニケーションが寸断されてしまった現代社会。どうやって、もういちど紡ぎ出すか。編み出すか。知恵を絞ろう。



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