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良いコンディションで在り続ける=見えないものとつきあいつづける

最近の私にとって、とても重要なことは、
「(私自身の心身が)良いコンディションで在り続ける」
ということだ。

コンディションー。
それは、目には見えないものだ。
つかみきることのできない、得体のしれない、
変わり続けるものだ。

私という存在の中にある、
いや、中なのか、外なのか、付随しているのか、
それすらよくわからないけれど、
とにかく、その目には見えない、「コンディション」
を大切にしたい、できるだけ常に良い状態にしたい、
そういう風に、やっと思うようになった。

逆に言えば、私は、これまで、あまりにも、
「目に見える何か」
に非常に囚われて生きてきていたんだろう。

もちろん、なにか嫌なことがあったり、苦しいことがあれば、
嫌だな、苦しいな、快適でありたいな、
とは、これまでもその都度思ってきてはいた。

だけど、気づけば、すぐにそんなことは忘れ、
目に見える何か、にとらわれて、
―たとえば学校の成績だとか、経済力だとか、能力的なことだとか、
友達の数だとか、パートナーの有無だとか、外見のことだとかー
そういうことに意識の多くが支配され、
そういった目に見える成果・結果・形といったことにこだわるあまり、
自分のコンディションというものがないがしろにされ、
時には精神を病むことさえあった。

こうでありたい、とか、
こうでなくてはならない、とか、
目に見える形に正しさを求める癖がどうしても抜けなかった。

38歳にして、ようやく、
最優先は、
自分のコンディションだ、
と心から思えるようになった。

自分のコンディションが良いのであれば、
目に見える形はどのような形をしていてもよいのではないか、
と思うようになった。

これは、目に見える形を軽視するということではない。
ただ、こうありたい、とか、こうでなければならない、
という風に、固定化せずに、
目に見える形が、自分の思いもよらぬ形に変化することを、
嫌がらずに、面白がろう、
という考えに変わったということだ。

自分のコンディションが良ければ、
きっと、良い形が生まれる。
それは元々想定した形ではないかもしれないけど、
コンディションの良い状態から生まれる形は、
どんな形であれ、良い形なのだ。

しかし、逆は、そうとは限らない。
いくら世間体の良い、評価の高い形を
こしらえることができたとしても、
自分のコンディションの良さにつながるとは限らない。
内心嫌だったり、苦しかったりする可能性も、結構ある。

学校教育の中で、散々、
「物事には唯一の正解が存在する」かのような正解主義を
洗脳され、
いろいろなことが言葉に置き換えられて分かった気になり、

「見えない」「つかめない」「わからない」
という状態を許せない、
そういう得体のしれない何か、
を得体のしれないそのままにとらえようとしない、
簡単に、楽に、答え、とか、快楽、とか
そういったものを求めてしまう癖が、
パブロフの犬のように条件反射で植え付けられてしまっていた。

その洗脳から、ようやく、少しずつ解放されつつあるのか。
長い時間がかかったな。

目に見えないもの
目に見えるもの
両方大事だ。

ただ、目に見えるもの、について、
多くの人は、かつての私も含め、
「正解がある」と思いすぎている。

目に見えないもの、内側から生まれ出す、
予期できない何かも面白がりながら、
創造的に、表現した結果として、
目に見えるもの、
が、ただ、存在している。

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