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「企画書」読書メモ16

Ⅱ.

「教育メディア」

情報サークル

教育が先生と生徒、師と弟子という人間関係の権力構造に無自覚なまま続けられる限り、生徒は知識のコンプレックスで委縮し続けるだろうし、やがて、その師とワン・ノブの知識の優越者(知的権力者)になるしかないだろう。(p.184-185)

こういう権力構造が、インテリアレルギー的な社会現象を生み出し、反知性主義的な社会の流れを生み出してしまってきたんだろうな。

教育という現場の中で、主体はあくまで生徒にあるべきだと思う。教師は生徒のための道具であり機械でありシステムであるべきだと思う。(p.185)

インターネットが普及し、こうした関係性の構築は、決して無謀ではなくなる可能性を秘めていると思う。文部科学省も「個別最適化」というフレーズをよく使うようになっているのを聴く。

学校という空間や、教育という制度が最初にあるのではない。まず、ぼくたちの情報への渇望があるのだ。(p.185)

教えてもらうことをただ待ち構える、という習慣をまず改めないといけないな。学ぼうとする、これが一番大事なことなんだろうな。

諸悪の根源は、教育に限らず、あらゆるシステムに応用されている「一方通行の情報の流れ」である。(p.185)

受け身人間量産システムの諸悪の根源はこれなんだろう。双方向が当たり前、にどうやってもっていくか。

だから問題は知識の質やモノの見方のアレコレではない。一方的にしか情報を送りこむことができないシステムそのものの方だ。(p.186)

双方向性を、もっともっと、具現化する手立てを人類はみつけないといけない。

(おまけ)

情報の流通を可逆的なものとしない限り、メディアはひたすら権威であり、教育は情報保有者の支配の一環でしかない(p.187)

支配関係から、尊重関係へ。それを具現化する具体的手立てを!

主体塾

近代教育の原型はおそらく軍事教育だ。たたかい、それも個人の側からの主体的なたたかいではなく、たたかいあうことで成立している今の世の中の人々をまきこむためのシステムだ。全体による個人の一方的支配。個人が個人であることを許さない数々のルール。(p.187)

ルーツは軍事教育にある。ルーツを知ることは根本的改革に必要なこと。

今の教育システムだと、「正解」というのは常に「世の中=全体」が用意するものだ。人々の数々の疑問の答えが、用意周到に整理されている(ように見える)のが、今の学校だ。教師は全体が用意した正解の代理人である。(p.188)

正解主義の世の中。少しは変わってきているのかな。

今の大学に集まっているのは、世の中が用意した「正解」に自分をあてはめてきた人々だ。(p.188)

そうでしょうね。

自分で正解を発見するのではなく、全体が信じている「正解」を知識として記憶することが今の受験勉強であることは、誰だって知ってるはずだ。(p.188)

このカラクリに、早めに気づいた方がよいよね。

勉強とは自分の時間をどのように自覚的に使うか、だけである。(p.191)

とても重要な一文。自由な時間をいざ目の前にすると途方に暮れる人がいる。一方で生き生きと豊かな時間を創造する人がいる。教えてもらおうとするのではなく、「学ぼうとすれば」、自由な時間は輝きだすはずだ。

無制度社会

ぼくは無制度論者。教育も医療も議会も福祉も政府も家族も文法も国家も・・・・・・・あらゆる制度はなくなっていくべきだと思っている。(p.192)

制度設計は大事だとずっと思いこんでいたんだけど、無制度という発想は私には無かった。ここらへんの意識はまだ追いついていない。

現実に関わっていくということは、自分の外側にある機構にのめりこんだり衝突するだけのことではなく、自分の内側にある制度の正体をはっきり意識しつつ機構に向かっていくことだ。(p.193)

無意識のうちに内側に浸透しているものに対して、自覚的であることは、自分を変えたいときに変える際にとても必要な作業になってくると思う。

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