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「フラジャイル 弱さからの出発」読書メモ8

以下、第4章「感性の背景」第3節「いつかネオテニー」を読んで感じたことや考えたことである。この節では、途中から、ウィルスの記述が登場する。ちなみに、本書は新型コロナウィルスが猛威をふるう、かなり前に書かれた本である(初版2005年)。

鳴海仙吉の全生涯をかたちどっているのは故郷にたいする抒情的なノスタルジーである。仙吉はこのノスタルジーをついに脱出できず、自分の内側に巣くう「幼い原郷」にとどまっていく。伊藤整『鳴海仙吉』の荒筋だ。(P.207-208)
私は、鳴海仙吉やフレデリック・モローの境遇の中でひとつ不思議なことがおこりつづけていることに注目したい。それは仙吉やモローの周囲の女性の多くが母親のような態度を示すことだ。かれらは「ネオテニー」(neoteny)だったのである。(p.208)

ニッポンの「kawaii」文化とか、「萌え系」のアニメや漫画を成人になっても好む文化だとか、世界的に見ても、日本は「幼さ」を肯定する文化が根付いている社会なのではないかと思う。ネオテニーという用語は馴染みが薄いかもしれないが・・・。逆に、精神的成熟や大人社会の文化というものの発展が普及しておらず、国民全体が幼さに満ちているともいえるのかもしれない。

スタンリー・キューブリックの『二〇〇一年二〇〇一年宇宙の旅』のラストシーンは一種のネオテニー幻想を最初に描いた傑作だった。例の超老人と生まれたての嬰児が映し出されるあのラストシーンだ。(p.209)
考えようによっては、女性に人気のあるダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』も、男性に人気のある大友克洋の『アキラ』も、やたらに親たちに人気のあるミヒャエル・エンデの『モモ』も、ネオテニーを主題にしていたと考えてよい。(p.209)

様々な物語作品の題材としてネオテニーが使われていることが挙げられている。二〇〇一年宇宙の旅のラストシーンは印象的で覚えているが、他の作品はあまり馴染みがなく、ネオテニーを題材とした作品を特別に好むような感覚が私にはどうもないようだ。

ネオテニーはどんな動物にも適用されるわけではなく、むしろ人類にこそ特徴的な現象である。人間が特別にネオテニー的動物なのである。(p.210)
「遅滞」という戦略(p.211)
ペドモルフォシス(幼形進化=paedomorphosis)(p.211)
ジェロントモルフォシス(成体進化=gerontomorphosis)(p.211)

ペドモルフォシスは、幼児化することが進化になるという意味の一方で、ジェロントモルフォシスは、成体になってからの変化だけが進化するという意味とのことらしいが、ある学者の説によれば、これは進化を袋小路に導くものだとされているそうだ。「遅滞」は戦略なのか。このことを考えることは、人間を理解するうえで、非常に重要なことのようである。

「跳ぶために退く」(p.214)

これはフランスの格言だそうだ。

「ピーターパン現象」(p.214)

ネオテニーによる発育遅滞をピーターパン効果とよび、大人になれないピーターパンは生物学的に重要な進化の秘密を握っているのだと解説する人物もいたそうだ。

「幼生生殖」(paedogenesis) (p.215)

一八六六年に比較発生学の泰斗カール・フォン・ベーアがギリシア語の「子供」と「生成」を合成してつくった言葉だそうだ。

「個体発生(ontogeny)は系統発生(phylogeny)をくりかえす」(p.216)

これは、エルンスト・ヘッケルが主張した有名なテーゼだそうで、ガースタンはこのテーゼに対し

個体発生と系統発生はやみくもにくりかえされるのではなく、むしろ個体発生が系統発生をつくりだしているのだ

と考え一撃をくらわしたそうだ。

個体の部分変化が全体にたいする「アロメトリー」(allometry)をもっているということにあたる。アロメトリーはわかりにくい用語だが、「相対成長」と訳している。(p.216)

高度な複雑さをもった生物はみんな一緒はありえないことを意味する、部分が相対的に、モザイックに、しかも相互に関係をとりながら成長をとげてしまう・・・という記述が続く。

「われわれは幼な心の完成に向かっている」・・・(中略)・・・幼形憧憬・・・(p.218)

神話から子供漫画におよぶ歴史を通して、これらのことを考えなければならないとおもっている、という記述が続く。

ネオテニーの秘密については、異なる見方もある。それは、ひょっとするとネオテニーはウイルスのふるまいと関係をもっているかもしれないということだ。(p.218)

ここで、ウィルスの話がとうとう登場する。

従来の進化論からみると、生物の進化を演じているのは主に三つの別々の担当者だということになっている。遺伝子と生物個体と種、の三つだ。(p.218)

この基本的なことをまず頭に入れた上で、ウィルスについて考えていく。

次からは、松岡氏の3つの考えの提示だ。

まず、1つ目。

生物もいくつかの情報自己を相補的に調整しながら生きているはずだった。(p.220)

絶対的なプログラムをもつ「情報自己」を生物があらかじめ用意しているとは思えない、とまず述べた上で、最終的に上の記述で締めている。

2つ目は、

生物のような有機体における情報の動向を追うにあたって、個体にあらわれた情報がすべて遺伝子に還元できるとする考えかたにはかなりの限界がある。(p.220)

3つめは、

進化の鍵を握っているのはウィルスだという説である。(p.221)
進化を演じる四つ目の担当者、それは、進化や遺伝の力からみればちっぽけで弱々しいウィルスなのである。(p.221)

という考え。

われわれの体のなかには無数のバクテリアがわさわさ棲んでいる。(p.221)

という事実、

「われわれはバクテリアの動く植民地だ」(p.221)

というニューヨークの国立癌センター所長のルイス・トマスの言葉、

ウイルスが遺伝子を運んでいるらしい(p.222)

という事実、

進化の鍵をウィルスが握っているという説は、どうやら大げさな話でもなさそうだ。

一九七〇年に逆転写酵素を発見したのちに「DNAの中にはウィルスが住んでいるかもしれない」と予測したハワード・テミン(p.224)

は、仮説の出発点をつくったお祖父さんだそうだ。

自分自身を粗雑なモデルにして情報を逆転写できる原始的なRNA分子、新陳代謝力をもつが情報伝達能力をもたない原始的な細胞(分母細胞とよぶことにする)、自分では生きられないが何かの安定を求めていた原始的なウィルスのようなものたち、およびこれらのものたちの活動を活性化しうるパターンをもった粘土の微結晶などが、それぞれ複相的な関係をもちあったのだ。(p.225)

いろいろな条件がそろって、まずRNAが逆転写のしくみをつかってDNAをつくった。そのDNAはすでにウィルスのようなもの(原始ウィルスとよぶことにする)が入りこんでいて、この原始ウィルスが遺伝情報をそれぞれにはこぶ役割をもった。・・・その後も重要な記述が続くが割愛する。が、最終的に、

「誤りを許すシステム」(p.226)

ができたのだそうだ。非常に難解な記述だった。

そこでRNAは、あたかも編集者たちが著者に企画内容を譲るように、自分のすべきことをDNAに譲り、DNAだけが情報複製の能力をもつことになっていった。(p.226)

かくてワトソンとクリックがあかしてみせたDNAによる遺伝情報の完全複写システム(セントラル・ドグマ)が、ここにやっと確立した、という記述がつづく。

アミノ酸ータンパク質を基盤とした原始生命と、RNAを基盤とした原始生命とのあいだには、フラジャイルで劇的な情報編集戦争があったということを暗示する。(p.226-227)

この記述は、難解な、先ほどの専門的な記述を多少分かりやすく表現しなおしていると感じる。

RNAが生命史の最初の編集者だったのである。(p.227)
そうしたRNA型の原始生命の系譜はウィルスとして今日にまでおよび、そのウィルスがあいかわらず宿主を有為的に選択して、その宿主にDNAをつくらせる方法をつかいつづけているということなのである。(p.227)
生物はかならずしも利己的遺伝子にだけ牛耳されているというわけではない。今日もなおウィルスたちによって種の壁や個体の壁を越え、遺伝子をひそかに交換し合っているのだ。(p.227)
ウィルスは種をこえて遺伝子をはこんでいる。(p.228)

ちなみに、頻出するRNAという用語は、ribonucleic acidの略称だそうで、日本語で訳すと「リボ核酸」だそうだ。こちらのサイトで、RNAとDNAの共通点と違いが丁寧に解説されていた。正しい情報なのか定かではないが、ご参考までに。

ネオテニーの話から始まり、ウィルスの話が展開された。遅滞とは、視点を変えれば、寄生せずには生きられない状況のことを指す。それぞれが自立的に存在することでは、決して生まれてこない、寄生することを通じて実現する種をこえた発展や進化の形が、この節では述べられていたように思う。

コロナ禍を生きる私たちは、これらの記述を通して、ウィルスは闘う相手というよりは、私たちの存在の一部なんだととらえなおして、うまく共生していく知恵を絞っていくことが必要なのかもしれないと思った。
























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