「孫子の兵法」に学ぶスピーチ 空気に色を付け「見える化」する技術(おわりに)
本書では繰り返し「身の丈(人格・見識)」を高くすることが大事であると述べてきました。
では、それを可能にする近道はないのかということになりますが、これは宗教や哲学に関わる部分であり、この本の読者や私のクライアントだけを囲い込み、「正しい答えはこれですよ」と主張することは不遜であると考えております。
「人それぞれ、その人でないと知りえないことを知っている」
これが筆者の思いであり、差し出がましいことを申し上げることはできませんが、あくまでも一般論の延長という部分で、「身の丈(人格・見識)」を高くするための自己教育に関する私見を書かせていただきます。
●「仕事に励む」
筆者はスピーチライターとして独立する3年ほど前まで、土木系の建設会社で事務職をしていました。15年程、在籍していた期間に刑事事件が3回(贈収賄が2回、残土の不法投棄が1回)あり、その都度警察の家宅捜索や、新聞社の社会部の記者が掛けてきた電話に対応するなどの経験をしました。
居留守を使っている上司が事務所にいることを見越して、カマを掛けてくる相手とのやり取りに苦戦したり、「何を眠たいことをいうてるんや!」と怒鳴り声をあげる上司とのやり取りを通して、筆者は「リスクを回避する言葉の使い方」を肌感覚で学ぶことができたと感じています。
読者の皆様と筆者とは置かれている立場も業種も違うと思いますが、筆者自身の思いでいえば、典型的なブラック企業であったその会社に在籍したことは結果的に良かったと感じています。
●「一人一人と語り合う」
詳細は個人的なことですので割愛しますが、筆者は青年時代から仕事以外でも、地元を中心とするコミュニティの中で、年代や業種、男女の別なく多くの人たちと触発しあいながら人間形成を行ってまいりました。
指導的な立場にある人はいかにあるべきか、そして、「振る舞い」を通してその人の本質を見抜くことがいかに大事であるか、諸先輩から多大な影響を受けたことには感謝していますが、「『大勢の前で話す』ことよりも『一人一人と語り合うことの方が、実は成功の近道である』」という学びを得たことは、とりわけ大きな財産であったと感じております。
対話が大切なことについては、「4.軍形篇」の解説においても書かせてもらいましたが、ジャーナリストの田原総一朗さんも、時には無名の大学生を自宅に招き、直接意見を聞くなど、テレビでの印象とはまた異なった姿勢で対話に取り組んでいます。
「対話なきリーダーは、本当の意味で人生に勝利することはない」
私自身、「スピーチのプロ」でありますが、このことは読者の皆様に明確にお伝えしておきたいと思います。
「スピーチを過大評価も過小評価もすることなく、等身大の自分に照らして適切に運用する」このことも心においていただければ幸いです。
●「読書に励む」
既に述べた通り、孫子の兵法は「読後の納得感」と「現実社会で起こったこととの検証」というサイクルが何千年に渡って、無数の人たちの中で繰り返され、「間違いない」という評価がなされている書籍です。
筆者が「孫子の兵法」に全幅の信頼をおいた上で意訳を行い、本書を執筆したのもまさしくそのことによるものであり、単に「有名だから」「よく売れているから」という理由で取り上げた本ではないということをお伝えしておきます。
さて、残念ながら世の中にあるスピーチを題材にした本の中には、「戦略的な思考」の前提となる「物事を医者が診断するように立て分け、一つ一つ丁寧に見ていく」ことを阻害するような文脈で書かれているものもあります。
例えば、
「(語り掛ける)パブリックスピーチ」と「(紙などを)読み上げるスピーチ」
「(原稿を作成する)スピーチライター」と「(話し方を教える)スピーチトレーナー」
そして
「エンターティメント」と「実用的なノウハウ」
との違いを意図的に曖昧にしている書籍がそれです。
いわゆる「スピーチライター」を主人公にした本が、メディア等で数十万部単位で売れているベストセラーであると喧伝されているにもかかわらず、同職の職業人口がほとんど増えていないことからいっても、この本の「基本的な認識が間違っている」ことの証左であるといえるでしょう。
スピーチライターは、言葉に対する苦手意識を持っているリーダーの見識を「見える化」する職種であり、スピーチトレーナーとも連携することにより、大きな効果を得ることができると確信しておりますが、偏った主張にミスリードされる形で、水を差される結果になっていることは残念です。
先にも書いたように、本書は信頼性の高い書物である「孫子の兵法」を深掘りするアプローチで書かれていますが、筆者自身も今後貪欲に読書に励む中で、ノウハウの深化をはかり、実地検証のサイクルを加速してまいりたいと考えております。
読者の皆様におかれましても、戦場にあって一日数時間の読書に励んでいたナポレオンの姿を参考にしながら、「生きた学問」の習得に励んでいただければ幸いです。
古代ローマの英雄、ユリウス・カエサルは自らの手で、名著『ガリア戦記』を執筆しました。
反対に日露戦争で空前の大戦果を挙げた、東郷平八郎海軍元帥は、自らの意を踏まえた参謀の「言葉の力」を上手く活用しながら、今なお人々の心をとらえてやまないメッセージを残しています。
「ゼロベースで言葉を生み出すのも表現」
「見識を伝え、言葉を選び取るのも表現」
結びに、「自らの確信と決断により言葉は魂を得、人の心に突き刺さる」と書かせていただき、筆を置かせていただきます。