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ブヌンの父、Tamaが亡くなりました。

あまりに大きな存在を失ったので、まだなんだか呆然としています。
それは、8月21日深夜のこと。Tamaはしばらく前から体調を崩していたものの、「もうすぐ退院できるよ」とビデオ通話をくれたばかりだったので、まさか、という衝撃が先に来ました。


ああ、もう、この世にTamaは居ないんだな。
そう思うと辛くて苦しくて胸が潰れそうです。

Tamaと出会ったのは、2003年3月のこと。私が修士論文のための調査先に選んだ台湾南投縣のある村。そこの民宿のご主人でした。
私を最寄りの街まで迎えに来てくれたその車中で、「ブヌン語ではお父さんはTama、お母さんはTinaというんだ」と教えてくれて、
「へえ、聞かれないのに自分からブヌン語を教えようとするなんて! 
ブヌンの人って自文化を大切にしてるんだなあ!」
と嬉しくなったのをくっきりと覚えています。

そこからずっとTamaは私のTamaでした。数日後には「もうAyaはうちの娘だ」と宣言し、Saniという名前をくれました。
Tamaは、私にとって、ブヌン語の師匠であり、ブヌン文化の老師であるとともに何でも話せる友達でもありました。

当時、ブヌン語の学習書はほぼ皆無だったので、私は手探りで簡易テキストを自作しました。Tamaは、嫌な顔一つせず、朝5時から夜遅くまで、仕事の合間を縫って私にブヌン語を教え、録音を手伝ってくれました。
 
私の目標は村のお年寄りの全数調査だったので、毎日朝から晩まで、Tamaの原付に乗せてもらって村中を回りました。皆に顔を繋いでくれ、華語も日本語も不得手な方のインタビュー時には、ブヌン語で通訳もしてくれました。

私がフィールドワークが終わって社会人になっても年に一回は行っていたので、懐かしい思い出が書ききれないほどあります。
相方や子どもたち、母、弟、相方の両親、仕事仲間など、色んな人を連れて行きました。何度も何度も。

Tamaは、大学卒業後に大病院のシステム管理者を勤めた後、脱サラして生まれ故郷に帰り、お父さんの介護をしながら民宿を始めました。
奥さんは、当時としては珍しく、平地の多数派民族(ホーロー)です。(周囲に大反対されて、駆け落ち同然だったそうです)
そうした経歴からも、視野が広くて、話題が豊富な知識人でもありました。

いつも陽気で、動物好きで、食べるのが大好きなTama。
料理が上手で、いつも美味しいものを5品以上わんさか作ってくれるので、私が1ヶ月で4.5キロ太ってしまったこと。
シャーペンの芯・乾電池など日用品を買うためには車で20分の街まで行かねばならず、Tamaに週1回連れて行ってもらうのが待ち遠しかったこと。
Tamaはついでにヒヨコを仕入れ、宝くじを買い、エビを釣るので、その間連れ回されてちょっぴりイライラしたこと。
でもどうしたことか、そうした時間が特に色濃く思い出されること。

約束の時間をすっぽかしたり、人の名前を間違えたりと、お茶目なところもあるTama。
でも家族やお客さんのことを大切にして、農業も民宿の運営も一人でしっかり切り盛りしていたTama。
何よりも、ブヌン語とブヌン文化をとても大切にしていて、機会を見つけては人に伝えていたTama。
世界各国からのお客さんに、フランクに接して笑わせ、皆に慕われていたTama。

私は、そんなTamaが大好きでした。
 
もう二度と、あの温かい笑顔が迎えてくれることはないのだと思うと、悲しくて悲しくて胸が張り裂けそうです。
もっとブヌン語を勉強して、上手になっておけばよかった。
もっとブヌン語動画をたくさん作っておけばよかった。
もっとビデオ通話で顔を見て話せばよかった。
後悔が沢山あります。
せめて、これから少しでもブヌン文化に貢献し、Tamaが天国で喜んでくれるような人生を送りたいと思います。
Tama, madaidaz su-u sauqabas-qabas, Uninang !

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