商船学校卒業後

商船学校卒業後

卒業後の人生も父は記述を残している。
「結局青函連絡船に乗ることにして帰還した。ところが暖かい清水に慣れた体は厳しい函館の冬に適応しにくくなっていた。厚い敷布団2枚の上に二つ折りにした掛け布団を挟んでようやく凌げる厳しい環境に仰天した。
『南にゆくほど運が開ける。北はダメ』と教えた占い師の助言を思い出した。幸か不幸か( 青函連絡船への)乗船(入社)許可の通知はなかなか来なかった。洞爺丸の遭難で東京にゆくことを決めた。父(百松)はしょうがないと諦めていたようだ。」

※青函連絡船洞爺丸の海難事故
昭和29年( 1954年)9月26日、死者・行方不明者あわせて1155人に及ぶ、日本海難史上最悪の事故となった青函連絡船洞爺丸の沈没事故が発生する。台風第15号による風速57メートルの強風と波浪の影響、浸水および防水防止に関する船体構造の欠陥(車両搬入口、甲板、機械室等に開口部)、船長の出航判断および天候予測、運航管理の不適などの原因が挙げられているが、午後7時に函館港を出港した洞爺丸は、出港間も無く航行不能に陥って、午後10時過ぎに転覆、沈没に至った。

もし父が乗員として乗り合わせていれば、この事故で命を落としたかもしれなかった。

青函連絡船の乗務員になることを諦めた國彦は、東京池袋で眼科医院を開業していた医師に嫁いでいた叔母を頼って東京に出る。ここでは、診療所の「会計の手伝い」をすることになるのだが、今で言えば、アルバイトの事務員のような雑用をしていたのだと思う。母のような若いアルバイトの医師に仕事の進め方を説明したりしていたようだ。

当時の事を國彦は、当時の事を「就職は厳しく海技免許など役に立つ事は無かった。叔父の眼科医院の会計を手伝い、妻になる眼科医とあう。」と記している。

眼科で國彦に出会ったキヌエは、「自分がアルバイトの身分でありながら、知人に仕事を斡旋してしまうような、人が良く欲がない」國彦の性格を気に入ったようである。

筆耕の仕事
國彦は、昭和29年に印刷所に職を得ていた。終戦後10年にならない当時、少部数印刷の場合には、まだ活版印刷よりも謄写版印刷が選ばれた時代である。蝋を染み込ませた薄紙に、細い針のようなペンで文字や図を書き入れると、その部分だけに薄紙にキズがつく。薄紙の下に紙を置いて、油性インクをつけたローラーを薄紙に押し付けると、キズの部分だけにインクが染み込み、紙に字や図が写る仕組みである。
薄紙にキズをつけ、線を描く時に細かいヤスリ状の板を下敷きにして硬い針状のペンで書き込む。作業の際にガリガリと音がするので、ガリ版印刷とも呼ばれていた。ガリ版印刷は、パソコンとプリンター、コピー機が普及するまでの昭和の学校では一般的な印刷器具だった。
ガリ版印刷では、活字は使わなかったので、楷書体の字を薄紙に書き込んで版を作る筆耕という作業が必要とされた。父の書く楷書体の字はとてもバランスの良い美しい字だったが、その技術で職につくことができたのだ。

私が子供の頃、もう仕事には使っていなかったのだろうが、自宅にも筆耕用具が残っていた。ヤスリ板と筆耕用のペンそして油を染み込ませてある薄紙があったので、ガリ板で絵を書いて遊んだ記憶がある。

母との結婚
眼科でのバイト職員の身分からようやく定職についた父は、キヌエとの結婚をすすめた。
結婚当時の事情を父が遺している。
「( キヌエは)義父( 本橋 豊)の死亡後、内之浦で開業するよう(キヌエの )婆さんと約束している。私との結婚はその条件で許可が出ているという」
北海道出身の、しかも定職が無かった國彦とキヌエの結婚には、本橋家側の強い反対があった。キヌエは親族を説得するために、「鹿児島に戻って医院を開業する」という約束をして、ようやく結婚の承諾を得ていた。
「義父の死亡後、内之浦で開業するよう婆さんと約束している。私との結婚はその条件で許可が出ているという。事情はわからなくもないが反対する理由もない。この後どうなるのかわからないが好きにさせる。月日が解決するだろう」
何とか親族の承諾を得た二人は、キヌエが東京へ戻ってきて、結婚することになるのだが、二人とも金も時間もない身分だった。
500円を持参して、吉祥寺の八幡神社に飛び込み、祝詞をあげてもらうと、写真屋で写真だけ撮って結婚式は終了した。両親の経済的事情や、地理的事情のせいで、仲人を立てることも出来なかったのだが、姉貞子夫婦に仲人役になってもらい、結婚できたと感謝していた。式が終わると、キヌエは職場へ戻り仕事を済ませたてから村上の家に戻ってきた。帰ると村上夫婦が食事を用意してくれており、それがささやかな披露宴となった。その時の様子を國彦が書き残している。
「( キヌエは)かつて私との交際を吉祥寺の( 國彦の)姉に頼んでいた経緯がある。互いに忙しい身体だから事前の連絡なしに、いきなり結婚式の申し込みをしたら神主さんが驚きながらも快く承諾してくれた。のし袋には500円が入っていた。帰ったら叔父夫婦がささやかな披露宴を用意して待っていた」
昭和29年4月27日の事である。
「両者とも自分たちの( 貧しい)状況を知り尽くしていたから翌日は何事もなかったように仕事を続けていた。新婚旅行など考えもしなかった。私は筆耕で彼女は開業医で離れ離れの生活が続いた。先がどうなるかは考えもしなかった。ものごとは全て時が解決する。それを待つしかないとのんびり構えていた。」
と國彦は遺している。
このようにして、國彦とキヌエは結婚したが、前述のような結婚前の鹿児島の親族との約束で、結婚早々にキヌエは鹿児島へ単身赴任することになり、遠距離恋愛ならぬ「遠距離結婚」生活がはじまった。


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