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絵描き/ライブペインティングパフォーマーの僕の自己紹介(長すぎるので2部に分けます。まずは前半)

今更なのですが自己紹介させてくださいね。


【幼少期〜小学校】

僕は1975年の品川生まれです。5歳の時に茨城県取手市に引っ越してきました。両親が緑豊かなところで子育てをしたいと考えたからです。また母のおじいちゃんおばあちゃんとも一緒に暮らすために少し大きな家が必要となったからだと聞いています。

その場所は川が二つ流れ、かなり広い森がある自然豊かな場所でした。僕が10歳ごろまでテレビゲームはまだなく、そしてテレビゲームが出てからも両親の方針でうちにはテレビゲームがなかったのでほぼその森で遊ぶような子ども時代を過ごしました。

ちなみに僕が好きだった遊びは「倒木をバランスを取りながら渡る」とか「崖を滑り落ちてみる」とか「ひたすら穴を掘ってみる」でした。

僕が森が好きになったのはこのころが背景にあると思います。


【中学校】

僕が通っていた小学校は人暮らす25名ほど。そして2クラス。また自然に囲まれた地域で農家も多く本当に牧歌的な小学校でした。みんなとても仲が良くて。

中学校は近くの小学校3つが集まった少し大きな中学校でした。その他の小学校というが僕たちからみると、なんというか大人びているというかすれているというか。。。少し怖い世界でした。一種のカルチャーショックを受けました。不良とか初めて見た気がします(笑)その当時、茨城の田舎といえば「かめれおん」とか「特攻の拓」そういう感じの世界でヤンキー文化そのものというか。。ナードだった僕はかなり萎縮してしまいます(笑)またサッカー部にも入ったのですが体育会系の乗りに馴染めず途中退部に。帰宅部になります。

そして小林くんというやはり帰宅部の友達とかなり仲良くなります。(小林くんというのはノスタルダムスの大預言を信じて1999年には世界は滅亡しているのだから勉強したって無駄じゃんと常々言っていて、実際に高校進学もしなかったツワモノです)。

僕はまだ絵に出会っていません。



【高校】

高校は東洋大付属牛久高校に入学です。そこは本当にマンモス高校でした。40名学級が一学年に14クラスあり合計700名ぐらいの生徒がいました。その頃茨城のヤンキー文化は絶頂期だったような。。。ヤンキーで有名だった「霞ヶ浦学園」も近所にありめちゃくちゃ怖かったです。


電車通学だとそういう人たちに会うのもなんだか嫌だったので僕はチャリ通を高校2年生からはじめました。片道20キロ。往復40キロです。自然が多い道を走るのはなんだか楽しくてのんびりと走っていました。(友達には引かれたけれど。。)

部活は当然帰宅部。それで早く帰って何をしていたかというと、やはり帰宅部だった中学校の同級生たちと毎日河原に集まってソフトボールしていました(笑)中にはソフトボールはしないでただ来て釣りとかして帰っていく友達もいて面白かったです。

うちの高校は2年生の時から「文系」か「理系」を選べるのだけど僕は「理系」を選択。物理は苦手だったけれど生物が好きだったからです。

それとこれは僕の人生全体の傾向なんですが「人が少ない方」「人がやらない方」「マイナーな方」「より少数派」を選ぶ傾向があります(笑)文系は全部で12クラス、理系は2クラス。圧倒的に少数派です。そんなところも選択の際に理系を選んだ理由があるのだと思います。(当時の自分の気持ちが思い出せないから推測。。)

とはいえ学校の記憶はあんまりないです。なんとなくぼんやりと生きていたのだと思います。ぼんやりしすぎて成績はめちゃくちゃ悪かったです(笑)

まだ絵には出会っていません。

【浪人時代】

高校3年の時に同級生の女の子と進路の話をしているときに「鳥取大学農学部に興味があるの。そこでは砂漠の緑化の研究ができるの」と言ってくました。僕はそれまで本当に目的意識もなく日々過ごしていたので進学についてもほとんどの意識がないままでした。それが同級生の子がそんな風に目的意識をはっきりともち進学をしようとしていることにびっくりしました。そしてその子は僕に「沙漠を緑に」という鳥取大学の教授が書いた本を貸してくれました。

今思うと人生で何度かふと訪れる大切な瞬間があるのですが、あの瞬間はそういう瞬間だったと思います。

僕は世の中に「沙漠を緑にする」という研究があり、僕が頑張ればそこに行くことができるのだと思いワクワクしました。元々、野山で遊んでいたので自然が好きというのもワクワクを後押ししたのだと思います。

問題は僕はめちゃくちゃ頭が悪かったことです(笑)鳥取大学は国立大学。センター試験で5教科8科目をクリアしないといけません。

親に泣きついて浪人させていただきました。。。

そしてこの時も「マイナー志向」が見事に働き「みんなが予備校に行くなら僕は自宅浪人で大丈夫!」なんて考えてしまい自宅浪人に。。。これが見事に失敗。

自分に甘い僕は日々甘えて過ごしてしまいました(笑)両親は仕事に言っていたので昼間は僕とおばあちゃんと二人きり。おばあちゃんとういうのがまた僕にとことん甘くて毎日お昼には出前を取ってくれるような人でした。しかも僕がうどんだけとか頼むと「うどんだけでいいの?カツ丼とかも取れば?」というような人でした。

そして成績も上がらず二浪することに。。。

二浪目は「駿河台予備校」というところに通うことにしました。そこでようやく僕は勉強の仕方がわかり始めます。

なんというか自宅浪人の時まで全く海図がないままふらふらふらふらと大きな海原を漂っていた感じだったのですが予備校で初めて「目的はここ。ここに行くまではこれぐらいの体力が必要。この体力をつけるには最初にこの基礎練習をして、そしてこの応用運動すればいいんだよ」とか「海というのはめちゃくちゃ広いけれど、日本海とかオホーツク海とか太平洋とかそれぞれに名前がついて区分されているし、いろんな島があったり海峡もあったりして、そんなのを見渡しながら進めばいいんだよ。まずはあの島まで行ってみようか」とかそんな感じ。

僕は人生で初めてこの時「目的に向かって努力する。そして達成する」という方法がわかったのと思います。

そして無事に鳥取大学農学部に受かります。合格通知が届いた時、いつも寡黙で受験に対しても何も言わずただただ見守ってくれていた父さんが「康平!やったな!」と握手してくれたのがすごく嬉しかったです。同時に「あぁ、父さんはずっと心配していたんだなぁ」と申し訳ない気持ちになりました。

そうそう、鳥取大学とは別に滑り止めではないけれど流石に三浪はできないので僕は明治大学の農学部と東京農大の農学部も受験していました。内心「受かるだろう」と余裕ぶっていたのでしたが最初に受験した東京農大は不合格。。。(やばい、、、このままだと三浪なのかも。。。)とかなり焦っていたら明治大学は合格。

合格通知が届いた時僕は出かけていて公衆電話から家に電話をして「どうだった?」と聞きました。すると電話で出てくれたのが妹で「こいちゃん(妹の僕の呼び方)、受かったよ。。。よかったね。。。」って泣いて伝えてくれました。

ああ、妹も本当に心配していたんだなぁ。

まだ絵には出会っていません。

【大学時代】

晴れて鳥取大学に入学することができて僕は一人暮らしすることになります。鳥取空港に着いた時の景色・空・温度を今も僕ははっきりと覚えています。山陰地方の独特の曇り空。「あぁ、ここで僕は暮らすんだなぁ」と思いました。

一人暮らしを始める前は実家で家具屋さんに行って「机を買わないとな」とか「タンスも必要だろう」とかあれこれ見ていたのですが結局何も買わずにただのリュックサック一つで引越ししました。

これも僕の人生の所々で顔を出す基本的な性格なのですが「面倒くさいな」と思ってしまうのです(笑)行ったらなんとかなるだろう、と。

リュックサックに入っていたのもなぜかテントと寝袋(笑)最初のうちは部屋の中にテントを張って寝るというシュールな日々を。。

あとこの時は携帯もなかったから公衆電話から夜に家に電話をしていました。まだ入学式が始まっていないから1日のうちに誰かと喋るのはこの時間だけ。なんかホッとしたというか、あの感触をなんだかよく覚えているなぁ。

しかし入学式の後にすぐに友達もできてそれから本当に本当に楽しい大学時代を過ごしました。心から鳥取大学に行ってよかったと思います。

鳥取の海も山も素晴らしかった。本当に毎日のように海に行ったり山に行ったりしていました。そして部活は入らなかったけれど(一瞬、昆虫部というのに入りそうになったけれど)、結局友達同士でサッカークラブを作って鳥取市の社会人リーグに参加しました。

みんな体育会系のノリが苦手などちらかというとマッチョではない人たちばかりだったので本当に楽しく楽しくサッカーをしました。それにみんな高校サッカーをしっかりやってきた人たちだったのでかなり強くて1年生の時は社会人リーグ4部から参戦だったのだけどそれぞれのステージを優勝して最後は鳥取市社会人リーグの上位まで行くことができました。「レッドソニックス」というチームだったけれどまだあるのかな。。。ユニホームはマンチェスターUとドルトムントのレプリカでした。ヨーロッパサッカー大好きな川島君が決めました(笑)僕はブラジルが好きだったからちょっと残念だった。

(みんな憧れだった当時のマンチェ。ベッカム)

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農学部でサッカーも一緒にしていた二村くんとか井上くんとか清重くんとかは本当に仲良くていつも一緒にいたなぁ。みんな下宿だし近所だから毎晩のように誰かの部屋に集まっていた。あとは鳥取大学のそばには湖山池というほとんど湖みたいにでかい池があるのだけどそのほとりでお酒飲んだり。

あとサッカー以外に大学時代にハマったのが自転車とか歩きとかヒッチハイクの野宿旅でした。

やたらと体力がある僕は「ママチャリ」で旅をするようになります。山陰山脈を越えて岡山や四国に行くのは軽いもので鳥取から地元の茨城まで帰ったり。本当に狂気の沙汰です。この時は寝袋もなく(ママチャリなので荷物がそんなに持っていけない)ずっと橋の下とかで寝てしました。野良犬が超怖かった。

ハイライトは鳥取から京都の舞鶴に行きそこからフェリーで北海道小樽に渡り、北海道の函館方面は抜かしてそれ以外をぐるっと回り、その後再びフェリーで青森に渡り、そのままずっと南下して茨城まで行き実家で一休みした後、今度は東京から徳島までフェリーに渡り今度は四国を一周して、さらに岡山から鳥取まで戻るという旅。

何が僕を掻き立てていたのだろう。。。ひたすらママチャリで走っていました。

でもあのなんていうかあれは僕の基本的な性格を作ったもう一つのものというか。「ゆっくりでもいいからこいでいればいつかはたどり着く」という性格を作りました。

いや、元々ゆっくりでマイペースではあったのだけどこれでかなり強固に「人とは違うペースややり方だけど僕にあうペースでゆっくりと物事を成し遂げるんだ」という性格が身についたと思います。

そのほかに紀伊半島を歩きとヒッチハイクをしたり、富山から新潟までずっと海岸線を歩いたり、九州をヒッチハイクをしたり。高熱で緊急入院したり、ゲイの方に狙われたりとかプチトラブルもいい思い出。


そうそう勉強の話をすると鳥取大学は2年生まで農学を総合的を学んで3年生のから専門を選ぶというシステムです。3年生で選ぶのは大まかにいうと「農学生産」か「森林・環境」か「農業に関する経済・政治」か。そしてそのあとにさらにテーマを絞って研究室に入ります。

僕は森林コースのその中で「林政学」という研究室に入りました。どちらかというと森に関する政治学や経済学や社会科学のアプローチをとる研究室です。理由はそこの教授八木先生のことが大好きになったからです。

初めて八木先生に出会って言われたことをよく覚えています。

「近藤くん、君はきっと砂漠の緑化がしたくてこの大学に入ったんだろうね。でもね、私はこういうことを考えています。それは砂漠というのは元々とても自然環境が厳しいところです。その砂漠に緑を育てるというのはとても力がいることです。物理的にも財政的にもいろんな面でかなりの力を使います。

だけどね、日本はどうですか??近藤くん、日本の土地の特徴を一言でいうと「穏やかな気温、穏やかで豊富な雨、そして豊かな土」なんです。こんなに森が育ちやすいところは世界でも珍しいです。日本の森は「切っても切っても生えてくる」のです。これは世界の宝物といってもいいのではないでしょうか?しかしその日本の林業は経済的な理由で今ほとんど活用されていません。こういった矛盾を考えるのが私たちの研究室のテーマなんです。人と森林の関係ですよね」

こういうことを八木先生は僕に言ってくれました。

僕はその先生のいうことを深く納得して「この先生のもとで勉強したいなぁ」と思ったのです。

でも本当のことを言うと先生の言った内容というよりは先生の人柄、雰囲気が好きになってしまったのです。

よく先生は僕を農学部校舎の屋上に連れて行ってくれました。そして遠くの山陰山地を見渡しながら(すっごいゆっくりした口調で。それが先生の口調)「近藤くん、あの山々が見えますか〜〜〜。なんて綺麗なんでしょう。あの山並みを眺めながら地酒をいっぱいいただく。この味がわかることが日本の森林をわかることに繋がるんですよ〜〜」なんていいなががら日本酒を持ってきて一緒に飲んだりしていました。(笑)本当jにのんびりした先生でした。そこが大好きでした。

その時先生が愛飲したいのはこのお酒。「強力」。




その時は「変わった先生だなぁ」なんて思っていたけれど、本当に今になって先生のいうことがわかるような気がします。結局は森林の取り扱いは人間の心の問題でもあります。だからこそ森林や森林を超えた自然に対する感受性のようなものを高めていかないと本当の根本的な解決はできないんだろなぁって。

そんなことばっかり言っている先生だから学会ではめちゃくちゃ浮いていたけれど(笑)

僕は先生のもとで勉強をするのが大好きで結局大学院修士課程まで進みました。

修士課程の卒業が近づいてくるとさらに博士課程まで進学するとか、就職するとか進路を考えないといけないのでがその話はまた長くなるので次回に。

そうそう大学院を卒業してからお会いしたのは2回だけ。

そのうちの一回は先生が学会のために都内にいらっしゃって、上野で一緒に居酒屋に行ったのでした。まだ勤め始めた僕の話を「うん、うん」とにこやかに聞いてくださったのでした。

その先生も5年前にお亡くなりに。。。本当に寂しいことです。先生本当にありがとうございました。

まだ僕は絵に出会っていません。

(次回に続きます)





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