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人々の拠り所「中間共同体」について

ある人は、国の外に出ることやグローバルな視点が大切だといった。またある人は、国単位の枠組みとしてナショナリズムが必要だといった。そして、地域の課題、ローカリズムこそ重要と言う人がいる。
どれも正しいし、どれも間違いのような気がしている。

まず、ナショナリズムが苦手だった。

今でも私は『国が、国が』と言う人が苦手だ。
様々な社会課題の責任を、すべて政府に持っていく態度が、器の小ささにさえ見えてくる。補助金で内部留保をため込む経営者や、法律の条文を盾にして、法令順守の対象でもなんでもない飲食店などで特別待遇を求めてくる方などなど。本当に必要な助けである場合もあるから、個々の例は挙げられない。だが、助けを出したり、待遇を整備する側の方が苦しんでいる姿も多々見られ、『(自分が良いように)国が良いといっているんだからいい』的な発想の方は、どうも距離を空けたくなる。
なにより、ナショナリズムを突き詰めれば、自分の国こそ正しいとする大集団同士のいさかい、極端にいえば戦争に繋がりやすい。
つい最近まで、グローバルとローカルが、まずしっかりしていれば良いだろうとの、考えだった。

グローバルとローカルの時代に?

今のところ、グローカリズムとの言葉が出てくるように、地球単位か地域単位で行こう!の勢いが強いようだ。流行りのSDGsも、国について、企業や地域、個人などと同列のステークホルダーとして扱っている。

で、グローバリズムとローカリズムだけでやっていく未来を想像してみた。
・・・結構、相当な摩擦が起きるんじゃないかと。
たとえば、いわゆる多国籍企業が、ある水源林を買い占めて儲けようとする。あるいは、エネルギーの補給路を際限なく押さえて要は買い占めて、ある地域に対して思いっきり強く出ては、穏健であっても奴隷のような扱いをしてくるかもしれない。

GAFAのように、便利な仕組みを提供してくれる企業でも?な面が出てくる。
私は、ある飲食店のGoogleマップで表示される情報を管理している。すると、ユーザー(つまり全地球人)からの提案で、営業時間情報が変更されるという不可解な機能が実装されている。その度に、情報変更承認を拒否して、元の営業時間に戻す手間を強いられる。
おそらく、もっともコストがかかる”中間”管理者の存在をなくして、無料サービスを提供しようとする試みなのだろうけど、実に余計だ。極大が小を助けようとして、中抜きを試した結果、実に”中”途半端なサービスになっている。

やはり、「国」などの中間共同体は、必須だ。

小にとっても大にとっても、中間が「防壁」になる

あくまで、性悪説で考えてみると、「国」は、各地域(市町村とか)と地球単位との間に立ってくれているともいえる。特にローカリズムにとっては、グローバリズムに対する防壁のような存在になっているんじゃないかと。

『じゃあ各地域が、グローバル対応すればええやん』という、性善説?な人もいるだろう。
「地域」が880万人の大阪府であれば何とかなるかもしれない。だが、10万人程度の市とか、それより小さい村なら、国をまたいで交渉する人材を育てるコストを確保できるだろうか。
日本の市以下に人口の少ない小国は、実質自らを「地域」とみなして、他の大きな「国」を盾にするような外交が展開される。あるいは、コスタリカのように付け狙われない小ささを生かして、紛争があれば徹して国連を利用する手もあるが、なかなか難しい。(実際、となりのニカラグアに何度か攻められており、常備軍こそ持たないが国民を防衛力として動員の可能性をうたっている)

逆に、ローカリズムは、自分の周りだけの利益を追及した際に、他地域への悪影響をおよぼすことがある。公害や環境被害を思い出してもらえるとわかりやすい。地球でいう中緯度、日本を含む30度~60度の緯度帯では、吹く風の多くが西からになる。偏西風だ。大気汚染被害の原因のほとんどは西であり、東にさほどの被害はない。いまでも、中国からのPM2.5や黄砂に韓国や西日本が苦しんでいる。国内で見ても、西淀川公害などは、まさに西側の尼崎を中心とした工業地帯からの排煙が、多くの人々を苦しめた。
自地域(国)が平気かつ利益を上げていても、他地域(国)を苦しめるというのは、悪しきローカリズム(ナショナリズム)の典型例である。これを取り締まるのは、それぞれの上位概念・共同体になるわけで、国に対しては、国際機関例えばCOP系の会議が重ねられているのもそうだ。
だが、地域単位の暴挙になれば、グローバルな期間や調整機構では追い付かない。そこで、国というほどよい単位が活躍する。西淀川にしても、一時期は国際規制を上回る国内規制で克服したぐらいだ。

だれもが「中間共同体」を

いきなり「小」が「大」とやり合うのは、難しい。
「中間」の存在がより必要になっていくだろう。
国際と地域の間に国があるように、普段の暮らしでも「中間共同体」の存在は、人生を助けてくれている。

この「中間共同体」の主軸を、20世紀の半ば頃から担っていたのが、職場と学校だ。それが、このコロナ禍で『要らないんじゃないか』に傾いている気がする。
私も『あっていいが、必要ではない』派なのだが、代わりがあったらの条件付きだ。

職場も固まりを失っていく今、何が代わりに「中間共同体」になるのか。聴講は無料として単位認定が有料になる大学が出てくる今、学校コミュニティの代わりは何になるのか。
地域や家庭は基礎共同体として、住んでいる地域以外の逃げ場というか拠り所を、何か一つもっていくのが好ましい。

特殊例として、私の場合

常勤の職場を持たず学生でもない私の場合、「中間共同体」を自分からも作り上げている面がある。役員としても活動させていただいているNPO、友人とともに立ち上げたプロジェクト、毎年顔ぶれは代わるけど担当科目の学生たち、などなど、強弱はあれど、場づくりが自分にも求められるコミュニティばかりだ。
古い表現をつかうと、中間共同体・コミュニティの点だけは、勝ち組かもしれない。皆々様にお礼を申し上げ続けると、日が暮れるどころではない。
色々なところに顔を出しては、手伝いに行き、手伝ってもらいを繰り返すうちに、繰り返せるところだけが、付き合い続けられるコミュニティとして残った感じだ。
冒頭の『国が、国が』タイプな方は、別記事でも書いたように、距離を置くのに苦労したが、それ以外の相性が薄い方は、自然と遠ざかるし、必要ならまた仲良くなっていく。無理やりな営業発想になりさえしなければ、複数の中間共同体と付き合えるようになってきた。

というわけで、私は多数の「中間共同体」に出入りさせていただいている特殊な者だ。
気がつけば、職場や学校等を基本として生きる、多くの人たちがどう思っているかの想像力が段々と減ってきている。どうすれば、二つ目、三つ目の「中間共同体」が持てるのだろうかと。頑固なキャリア志向や学歴至上主義な方々は諦めるにしても、どうすれば「小」と「大」のぶつかりを緩和できるのだろうかと。

平成以降生まれは、自分でも助けているかもしれない

平成以降生まれの若い方の多くは、昭和生まれの我々にくらべ「ドライ」にものを捉えている感がある。良くも悪しくも「国」や「大企業」の存在が遠い。facebookが使われなくなったことでもそうだ。自分の事業や活動ならまだしも、”○○会社で頑張ってます”投稿がいかに身近でないか。親がそうであったとしても、公務員であれ企業社員であれ、コンプライアンスの壁が、子どもに対する職業体験の伝承を邪魔する。もともと、サラリーマンの身で、職業体験を伝承する親はレアであったことに拍車がかかっている。

そこに私が、「どんな業界が影響している?」なんて問いを投げかけても、わかる学生は少ない。大きすぎる単位では、一緒に物事を考える前提にはなりにくい。ましてや、国連の唱えるSDGsも。

年長者が話の前提を合わせればいい。
「会社」ではなく部活やサークル事例に置きかえたり、「国」ではなく「市町村」や「祭」単位に小さくしてみる。「祭」は学園祭だと、なおいい。そのうえで、学生でも知っている断片的な事例をつなげていく。
自分にとって、関わってきたコミュニティは何か。今後、関わればいい共同体は何か。

そうしているうちに、教え子の一人が、大阪都構想の話題を振ってきた。
厳密には大阪市が残る形での総合区制だが、隣接する区と一緒になるのが嫌だという。さらに聞いてみると、近所にある区役所が隣の区に移ってしまうのが何より不便だと。そして住所の変更も。
一歩進んだ感がした。政令市のなかの行政区もまた「中間共同体」の一例だ。その規模感に対する自分の考えを、私が聞くまでもなく考えていると話してくれるようになったのは、一つ前進ではないだろうか。

先輩の話で察した、中間共同体としての「国」の存在

この話を考える元になったのは、二人の先輩のお蔭である。いずれも尊敬しているし、今もその気持ちは変わらない。まさにお二人が、それぞれ、グローバル派とナショナル派なのである。

グローバル派の先輩は、『国を出て経験せんとアカン』と言い出した。私なんかはむしろローカル派なんですが、やっぱりいけませんかね~と返すと、語調を緩めてくれた。そこで、冒頭の『国が、国が』嫌いの自分に気づかされ、その話をすると、ご納得いただいた。

続いて、ナショナル派の先輩は、『ナショナリズムは必要』と明言してきた。ちょうど二人になったところで、気難しい話をしていたのだが、さすがに困惑した私は『グローバリズムとローカリズムが強くなっていくでしょう』と返した。先輩は『いや、60年考えて出した結論や』と言って、そのままトイレに入られた。

その間、以前の先輩とのやり取りを思い出した。最低限のエリートが世の中には必要との話だったと思う。
ある物質を加工できる国(地域)が、物質を別の国(地域)から得なければならない場合、国同士が物質と加工品のやりとりる場合、どうしても中間組織である国の存在が必要で、交渉者としてエリートが必要だ。

なるほど、ローカリズムとグローバリズムの緩衝材がナショナリズムだとの着想が出てきた。で、トイレから出てきた先輩にその話をしたものだ。
私にとって、ナショナリズムが必要悪であり、様々な人々の生活の激変を緩和する機能として、大切な中間共同体であるとの認識を得た瞬間だった。
それでも『国が、国が』な人は苦手だけど、腑に落ちた。

両先輩もまた「中間共同体」の産み主

グローバリストの先輩は、小さくとも何か動こうとする人には優しい。私と同じ考え方で実に居心地がいい。それで、ゲストハウスを軸にした「中間コミュニティ」を、作ったり支えたりされている。
ただ、その分だけ、自己管理を避ける人には厳しい。これも筋が通っているのだが、一歩間違えると、一時的にそうなってしまった方を排除する恐れはある。
気候風土や伝統文化に関係のない法則性を元に、自己責任で動いてこそグローバリストだ。早い話、「あの人は信教は違うけど信用ができる」になれるかどうか。

いっぽう、ナショナリストの先輩は、”苦しんでいる人”に優しい。永年の吃音症を持った方や、塾講師をしながら飲食店をする男性、病気を持ちながらも外国生まれの女性などなど。事あるたびに、相談に乗っている。話し相手になられている。
ご当人は、かつて誰もが知る大学をでて誰もが知る会社に勤めていたれっきとした元エリート。ご定年後に、これだけの広さをみせる姿は脱帽と言うほかない。なにより、私がみたことの無い形で、小さな共同体が出来上がっている。

おわりに

お二人の先輩を眺めていると、自分が生きてきた方向性を基礎にして、人への接し方を決められている姿がうかがえます。その延長線上で、小さくとも「中間共同体」を生み出されています。私自身の実践例も話すべきでしょうが、今回はここまでにさせていただきます。

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