インド・チベットの伝統から日本の仏教を読み直す
世界で関心を持たれているチベットの教え
日本ではあまり知られていませんが、チベットの仏教は世界の多くの国で関心を持たれています。ーーヨーロッパやアメリカ、香港や台湾、東南アジアの中国人社会、最近では中国本土の漢族(急速に人が集まり、現政権では規制がおこなわれているようです)、ベトナムでも盛んになっています。
理由のひとつとしては、指導者であるダライ・ラマ14世がノーベル平和賞を受賞して知名度が高く、仏教の伝統のない国では、「仏教僧」と聞くと、ダライ・ラマを思い浮かべる人が多く、そのため「仏教」と聞くとチベットの仏教を連想する人が多い、ということがあるかもしれません。
しかし、中国やベトナムは長い仏教の伝統がある国で、そういう国でもチベットの教えへの関心が高まってきているのは、チベットでは宗派を超えて「ラムリム(菩提道次第)」という、教えを低い段階のものから順を追って学習・修行しているため、初心者が手を出しやすいということがあるかもしれません。
どちらがいいとか悪いではありませんが、禅では「何のために坐禅をおこなうのですか?」「意味などない!」というのがお約束で、それと比べると、圧倒的に初心者が手を出しやすいものになっています。
チベットには、ゾクチェンやマハームドラーと呼ばれる奥義が存在しますが、それらもいきなり本行に入るのではなく、それに先立って前行の学習や実践をおこなうことになっています。
まず、自分がこうやって人間として生まれ、仏教に接することができているのは、あらゆる生き物のなかで例外的に恵まれていることを自覚するところから、仏教の実践はスタートします。
これは教義として「恵まれている」と信じ込みなさい、ということではありません。
私たちは今の人生にさまざまな不満を覚え、苦しみを感じていますが、それは私たちの関心が外に向けられていて、自分の持っていないものに目がいくからです。
百万円持っていない人は「百万円が無いから自分は不幸だ」と感じます。努力して百万円を手に入れることができた時は、喜ぶでしょうが、その満足は一時的で、今度は「一千万円が無いから自分は不幸だ」と感じるようになります。「隣の花は赤い」というのが私たちの心ですが、その捉え方でいる限り、赤いのはどこまで行っても隣の花です。
さまざまな理由で、生きていても価値がないと死を選んでしまう人がいます。けれども、お金持ちで病気がちの人からしてみたら、「その健康な体が手に入るのだったら、何億円払っても惜しくない」と考えるでしょう。
持っていないものに目を向けるのではなく、今持っているものの価値に気づくことが、仏教の出発点です。瞑想は、外に向けられている自分の視線を自分の心に向けるためのものです。
「当たり前」として特に恵まれているとは感じていない今の状況も、数千の卵が孵化しても、成魚まで成長するのは一、二匹の魚や、弱肉強食で、いつ殺されるかおびえて暮らす野生動物と比べるなら、例外中の例外の恵まれた状況であることを認めざるを得ません。
人間に生まれたとしても、戦争や飢餓に苦しんでいる人も少なくありません。戦争や飢餓を経験したことがない、というのは、人間の中でも少数派になります。
仏教の教えも、それが輪廻の苦しみから抜け出す唯一の方法であり、それに出会うことがない限り、私たちは輪廻の苦しみのなかで果てしなく生まれ変わりを繰り返すことになります。
そうやって今の状況がいかに恵まれているかを自覚できた時、しかしこの幸運は永遠に続くものではない、いつか終わりが来るものだ、と考えることで、今の恵まれた状況を無駄にせず生かそう、という思いが生じます。
・・・このように順を追って考えていって、仏教を学び実践できるこの時を無駄にせず、輪廻から解脱することを目指します。
その上で、他の衆生を見ると、彼らも幸せを望み苦しみを厭うのは自分とまったく変わらないのに、彼らは何が幸せの原因で何が苦しみの原因かを知らないため、幸せを望んでかえって苦しみに陥っていることが見えてきます。
釈尊は一切衆生を苦しみから解放するために仏陀となり、教えを説かれた。私も仏陀となって教えを説き、衆生を苦しみから解放したい、その思いが仏教の菩提心です。
伝統的な仏教の考え方と現代社会
仏教というと、死んだ人のためのもの、とか、昔の人は信じていたかもしれないが、現代に生きる私たちの役に立つものではない、と思っている人も多いかもしれません。
ですが、現在のように社会が発達し、昔の人と比べると生活は比較にならないくらい豊かになっているにもかかわらず、私たちは常に仕事に追われつづけ、豊かさを味わう機会は稀です。働きつづけ、お金を稼ぎ続けても、どこまで行っても真の幸福が訪れることはない、そう実感した人が、「仏陀の教えは本当だ」と、仏教に関心を向けるようになっています。
現在の日本では、「仏教の教義」「〇〇宗の教義」ということを言いますが、宗教=教義に従うもの、というのは西洋の一神教をモデルとした宗教の捉え方で、仏教は教義に従う教えではありませんでした。
釈尊の教え方は、「私を信じなさい、私の言葉に従いなさい」ではなく、本人が自分で気づかないと意味はない、教えはその助けとなるものでした(子供を亡くして狂乱するキサーゴータミーへの教え、弟子たちに「教えは向こう岸に渡るための筏であり、向こう岸に渡ったら不要になり、乗り捨てるべきものだ」と説いたこと(『蛇喩経』))。
日本の伝統とチベットの伝統
実はチベットに伝わる伝統は、アジア各地に伝わっているさまざまな伝統のなかで、日本の仏教と共通点の多いものです。
阿含経典だけでなく大乗経典も認め、チベットで最もポピュラーなのは『般若心経』です。
釈尊以外に、阿弥陀仏、薬師如来、大日如来など、多くの仏を認め、観音菩薩や文殊菩薩、弥勒菩薩などの菩薩信仰も盛んです。宗派の開祖の方を仏菩薩の化身としておまつりする祖師信仰もあります。
密教が盛んなのも、日本とチベットの共通点です。密教は伝わるのがむつかしい教えで、現在はテーラワーダの国になっているスリランカや、イスラームの国になっているインドネシアにも、かつては密教が存在していました。中国でも弘法大師空海が学んだ恵果阿闍梨の流れは中国では絶えてしまっていて、現在、中国密教と呼ばれているのは、明や清の時代にチベットから伝わったものです。密教の教えが今に伝えられているのは、日本とチベットを除くと、ヒンドゥー教のネパールのカースト制度のなかに、アチャールヤ(阿闍梨さん)と呼ばれる世襲制で密教の儀式を伝える家があるくらいです。
相違点としては、日本の宗派の多くが実践法で分かれているのに対し、チベットではひとつの宗派のなかに、坐禅のような瞑想も、密教も、浄土信仰も、中観や唯識などの学習も含まれていることが挙げられます。チベットの宗派の違いは、師から弟子への系譜(「血脈(けちみゃく)」)の違いで、日本の生け花や茶道の流派の違いのようなものです。日本では、天台宗が総合的な宗派だといわれています。
中観や唯識など、伝統的な仏教の学習法が残っているのも相違点で、今でも僧侶はそれに基づいて仏教の学習をおこなっています。
日本でもかつては開祖の教えだけでなく、倶舎や唯識、中観なども学ばれていましたが、明治にはいって西洋の考え方がはいってきて、それらは衰えてしまいました。
各宗派が設立した仏教系の大学でも、学ばれるのは明治時代に輸入した当時のヨーロッパの仏教研究に基づいた近代仏教学です。
まだ飛行機もなく、経典を集めて持ち帰り、翻訳する文献中心のもので、それに何が書いてあるかはわかっても、その背景となっている仏教の考え方は十分知られていない時代の研究で、伝統的な仏教の考えとは発想法自体が大きく異なっています。
日本の高僧がたは、現代の仏教の捉え方ではなく、伝統的理解に基づいて教えを説かれているので、インドからチベットに伝わった伝統を踏まえると、それらの方々がいかに高い境地に到達され、教えを説かれているかがわかります。
問題は、ではどれだけの人がその境地を正しく理解され、実践されているのだろうか、ということで、開祖の境地が高すぎる分、それを理解することはかなりむつかしいのでは、と感じざるをえません。
チベットの「ラムリム(菩提道次第)」のように、開祖の方が実践階梯として説かれたかどうかは別にして、開祖の方は実際にその境地に至る道をご自分で歩まれたのですから、教えや伝記から、そこに至る階梯を読み取ることはできるはずです。
弘法大師空海とその教え
「空海『秘蔵宝鑰』を読む ―十の心の段階に合わせた教えとしての体系的仏教理解」明治学院大学教養教育センター紀要『カルチュール』10-1
道元禅師とその教え
『神と仏の倫理思想【改訂版】』二章2、北樹出版
「道元・親鸞が見たもの(上)面授と仏性」『大法輪』2010年10月号
親鸞聖人とその教え
『神と仏の倫理思想【改訂版】』二章3、北樹出版
「道元・親鸞が見たもの(下)光明と空」『大法輪』2010年10月号
「後ろから読む『教行信証』 ―C・G・ユングの『チベットの死者の書』解釈を手がかりとした読解の試み―」明治学院大学教養教育センター紀要『カルチュール』9-1
「『歎異抄』を浄土信仰の流れに位置づける ―蓮如本錯簡説を踏まえた読み直し―」明治学院大学教養教育センター紀要『カルチュール』17-1
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