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エッセイ#2『ワクチン』
朝、7時18分。寝床に容赦なく照りつける陽光が眩しい。同時に身体の節々に鈍い痛みが走っているのを鮮明に感じる。ゆっくりと身体を持ち上げると、まるで遠征帰りの荷物を背負っているかのごとく、自分の身体がずっしりと重く感じられた。
ワクチンの副作用───
意識が次第に覚醒する中でそう思った。
○
昨日、新型コロナウィルスのワクチンを打った。2回目の接種だ。ワクチンの副作用は1回目よりも2回目に強く出るらしい。1回目のときは打った直後から、倦怠感、頭痛、発熱、関節痛などの副作用が生じた。だから今回も覚悟していた。
しかし、打った当日は何にも起こらなかった。ややだるいと感じるのみである。「2回目の副作用の方が弱い場合もあるのか」と思いつつ、ラッキーだなとガッツポーズをしていた。
そんなわけはなかった。昨日まで浮かれていた自分をビンタしてやりたい。が、それも叶うまい。怒りに呑まれ行き場を失った掌を、僕は額にピタリと当てた。真夏の日差しに照りつけられたコンクリートのように熱かった。
僕はベッドからのっそりと這い出した。
◯
毎朝の散歩が僕の日課である。だが、今日はさすがに億劫だ。着替えをすることさえ面倒くさい。たまには家でのんびりと朝を過ごすというのも悪くなかろう。そう自分を説得した。
それから、僕はコーヒーを啜りながら今日は何をしようかと考えた。読みたい本も読んでしまったし古本屋で本めぐりでもしようか、とか、見たい映画を見ようか、とか、当てもなく遠出してみようか、とか色々な空想に耽った。
空想ほど楽しいものはない。自分が描く世界の中では何もかもが思い通りだ。理想の本と出会い飽くなき知の探究をする自分、好みとドンピシャの映画と出会いそれを堪能する自分、いろんなところを巡り歩き気持ち良くなっている自分。いくつもの理想を想像する。なんて素晴らしい世界だ。
そんな妄想に耽っているうちに、僕は我を忘れていたことに気がついた。時計の方を見遣ると30分ほど時間を無駄にしていた。なんて無為な時間を過ごしてしまったのか、これもワクチンの副作用か、となんとかやり過ごす。
◯
貴重な大学生活を無駄にしてはいけない。卒業後には、労働者という肩書きのもと資本主義の悪魔に何もかもが搾取されるシナリオが待ち構えているのだ。自由に過ごせる時間は今しかない!刹那を尊重せよ!自由に生きよ、学生諸君!
そうやって自分を奮い立たせるものの、やはり生産的な活動をするのが億劫である。
そこで僕は今まで読んできた本をまとめることにした。整理整頓くらいなら、人類最大の武器である「頭」を使わなくてでもできる。
◯
僕の部屋は、読了した本や読書する際にとったメモ、授業で使用した資料、毎日の新聞で溢れかえっていた。生来よりマメである僕が自身のサンクチュアリを乱しに乱したのには明確な理由がある。ここ最近、精神的に辛い出来事が立て続けに起きていたからだ。
僕は、部屋の乱れは心の乱れ、という諺を勝手に作りそれを信条としている。そんな僕がゴミ屋敷の如く部屋を散らかし自らの信条に背くような愚行を犯すほど、僕の精神はすり減っているのだ。
そこで僕は部屋をあるべき姿に戻そうと決意した。精神が大損害を受けている今こそ自分にとっての聖域が必要なのだ。願わくば、我に休憩所を与え給え!
○
今まで読んできた本を整理してみると意外な発見がある。本と本との繋がりが見えたり、内容を完全に忘れていたり、読んだことすら忘れていることがある。そういう意味では、本を整理することも新しい読書の形なのだろうかとしみじみ思う。
また、本が新書のときとは違う匂いを発散させているのも一興である。紙とインクが織りなす匂いのハーモニー。この匂いを肴にワインが飲めそうなほどだ。実際、飲んだ。のち頭痛が増した。
本の見開きページに顔を埋め深呼吸をして匂いを堪能しつつ、片手にはワイン。その姿は、側から見れば変人だったに違いない。いや、冷静に考えればどこからどう見ても、変人である。
○
そうして新しい読書の形を発見し、楽しみ浮かれながら整理整頓をした。ワクチンの副作用はどこ吹く風か。そんなものは忘れていた。気づけば時間は正午を回っていた。
○
僕は楽しいひとときから無味乾燥な現実へと引き戻された。同時に、身体の節々にハンマーで終始打ちつけられているような痛みが走る。しかし、どうしようもない。
お昼ということもあり、空腹に駆られた僕は昼食を取ることにした。副作用の渦中にあるといえども、食欲は旺盛である。食わねば死ぬからだ。
昼食はサラダと相場は決まっている。誰が決めたかって?今僕が決めた。というのは、麺類やご飯などの炭水化物を摂取すれば、急激に血糖値が上昇し、午後には睡魔に襲われ微睡んでしまうのがオチであるからだ。
睡魔なんぞに僕の1日を惑わされてたまるか。とはいえ、真っ向から勝負すればこちらに勝ち目はない。ならば、相手の進路を閉ざしてしまえばいい。それがサラダなのである。
こうして多くの人が夢へと誘われ睡魔に敗北を喫す中、僕は連日連勝を収めているのである。
しかし、今日はサラダを作る気概がまるでない。連勝記録もここまでか。泣く泣く僕は冷凍食品で我慢することにした。
○
昼食後、副作用の反応が強くなってきた。熱が上がり、痛みが増し、頭はぼんやりする。座っていることもできなくなり、僕は人をダメにするソファに身体を預けた。ソファは身体を優しく抱きしめてくれる。無機物なのに温かみを感じた。
次第に僕はうつらうつらし始めた。睡魔の到来である。こうなってしまったが最後、睡魔の魔の手からは逃れられまい。僕はゆっくりと夢の中へ落ちていった。
○
窓から暖かな日差しが僕の目を照らす。どのくらい寝ていたのだろうか。時計に目をやると、昼寝をしてから30分しか経っていなかった。
どうやら、副作用による痛みのおかげで深い眠りにつくことができなかったらしい。敵の敵は味方というやつか。複雑な気持ちだ。
危うく午後の時間を無下にするところを止めてくれたのだから、副作用にも感謝するところができた。しかし、マイナスから少し0に近づいただけである。憎き副作用であることには変わりない。
なんならその強さは増しているではないか。鈍かった痛みを鋭くし、熱を上げ、怠さを促し、思考停止に追いやるほど頭をぼんやりさせる。何が感謝だ。
もう精神はこの上なく不安定だ。次第に「なぜワクチンごときに僕が翻弄されねばならんのだ。ムカつく。自分の人生の主導権を自分以外のモノが握っているなど許せん!」と怒りが沸々と湧き上がってきた。そして「出かけてやるぞ!!」とイキリたった。
○
向かうところは姪と甥と姉の家である。電車で一駅、所要時間は30分きっかし。
怒り心頭に発し意気揚々と身支度を済ます僕は、おそらくアドレナリンがとめどなく分泌されていたのだろう。僕の頭には「抗え」という2文字しかなかった。
○
外に出ると気分は爽快。痛みや怠さ、頭痛は引き潮のようにすーっと引いていき、同時に副作用に対する怒りも雲散霧消した。
行き違う人の目に移る僕の軽快としたその姿は、副作用で苦しんでいる姿とは到底映らなかったであろう。実際、僕自身でさえ副作用のことなど忘れかけていた。
○
姪の家に到着。すると、ものの数分で副作用がにょきっと顔を覗かせる。10分もすれば、僕の身体は完全に副作用に乗っ取られてしまった。このとき、外の空気は天然の鎮痛剤だ、我らにお与えくださった神からの妙薬なのだ!と強く悟った。
とはいえ、姪・甥の手前、弱音を吐くわけにもいくまい。僕は毅然として振る舞った。子どもたちよ、我が勇姿をしかとその目に焼き付けよ。誰にも真似できるものではないのだぞ!それを成せるのが私だ!と心の中で虚しく叫んでみる。23歳にもなって厨二病も甚だしい。僕は顔が熱くなった。
○
副作用の辛さを我慢しつつ、姪・甥と楽しく遊んで時を過ごした。ときには子どもと同一の目線で遊ぶという行為も、己の創造力が刺激され脳が若返るので良いことだ。
やがて、帰る時間になり身支度を始めると姪が泣き出した。その愛くるしい姿を抱きしめてやりたい。しかし、今抱擁してしまえば、熱った僕の身体による熱で姪を蒸し殺してしまうと思った。
僕は、まんまるの可愛らしいお目目にいっぱい溜めた涙をそっと拭ってやり「また遊ぼうね」と声をかけてその場を後にした。
○
家に帰ると、副作用の辛さは日中の辛さとは比にならないくらいに激しいものに変わっていた。しかし、「抗え」という2文字は未だに頭にこびりついている。負けてなるもんか。僕は自分をそう奮い立たせた。
とはいえ、何かしなければいけないということもないので、お昼同様、人をダメにするソファに横たわった。その柔らかさと無機物とは思えぬ温かみは相変わらずである。
夕食までまだ時間がある。僕はお笑いの動画を見て過ごすことにした。
○
夕食の時間だ。食欲は相変わらず旺盛である。家族が手をつけず残ったおかず僕は一つ残らず食らった。
食欲を満たしている間は副作用のことなど忘れて夢中で貪り食っていた。ストレスにより過食をしてしまう理由はまさにこれだと実感した。
夕食後、さすがに痛みに耐えきれなくなった僕は鎮痛剤を服用することにした。本当は薬など飲みたくはなかったのだが。
というのも、服用後、石油のような薬品の匂いが鼻奥に漂うからだ。しかし、背に腹は代えられぬ。涙を惜しんで薬を飲んだ。
現代の医薬の効能は凄まじい。驚くなかれ、およそ30分という早さで身体の痛みがあったという間に消失した。
こんなことなら朝のうちから服用していればよかった、と本日幾度目の後悔である。人生は後悔の連続だ。
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結局、今日はワクチンの副作用に翻弄された1日だった。自分の人生を自分ではない何かに牛耳られるほど腹立たしいものはない。臍を噛む思いだ。
今日という日を通じて、僕は自分の人生は自分で切り開くという信念を強めた。我が人生の主人公は私だ、誰にも邪魔はさせん、という厨二病じみた思いを抱きつつ、僕は眠りについた。
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