疲れました。

NOTEの意義をお忘れつつある今日の頃。
どうもお久しぶりです。

唐突ですが、何でもかんでも否定したりネガティブになる人と一緒にいると疲れません?もう本当に嫌になってきた・・・

この間この映画見たんだーと言うと、「え、あれ映画館で見るレベルじゃないよね」とか「邦画は映画館で見るクオリティじゃない」とか言ってくるんすよ・・・。

別にそう思うのはいいんですよ?多様性の時代ですし(最近じゃあ、この言葉も嫌いなってきた)でもさ、やっぱり最初の一言としてその発言はないよなー、と思うわけです。

普通なら、「どうだった?」とかの流れで「実は、邦画は映画館で見ない派なんだよねー…。かくかくしかじかでさ」っていう話になると思うんです。てかそれが自然でしょ。

それなのにいきなり「え!?あれ見たの!?映画館で!?無いわー」みたいな反応されたら、そりゃあこっちだって「あ、なんかすいません…」てなるじゃん。なんでこう楽しく会話を盛り上げようって気がないのかね。

このケースに限らず、会うたびに「仕事いやだなー」とか「めんどくせー」とか独り言ちるわけですよ。それ毎回言ってるじゃん…。休みの日くらい忘れようよ!!!!

でもそれを否定すると角が立つからなんとなく話に乗るわけです。そうすると、もう出るわ出るわ、愚痴のオンパレード。ちょっと待ってよ…。

愚痴くらいきいてやれよ、とか言う人もいるでしょう。それは僕だって思ういますよ。でもこれが会う度ってなると話は変わってくるよ。何回も聞いた愚痴を聞かされるわけですよ?せっかくの休日に。私は愚痴のごみ箱ですか!!!!!??????

で、その愚痴は僕の中にたまるわけです。基本的に僕は外面はいいんで(てへぺろ)、誰かに愚痴を吐くということは(余程のことがない限り)しません。だから愚痴がたまりにたまっていく。僕の中で、それはそれは熟成されて腐っていく。

で、どうなる?こういうところで吐露するしかないわけですよ。休みの日に?一人寂しく?不特定多数に向けて?鬱憤を書き連ねる?誰かに見られるわけでもないのに?誰からも見向きもされないのに?おっと…、ネガティブになりすぎました。

落ち込むのに疲れた僕は最近ではなるべくポジティブな言葉を使うようにしています。”めんどくさい”は”燃えてきた”、”疲れた”は”よくやった”。

おそらく、ネガティブ製造マシンと化した人は縁を切るのが聡明な対応なんでしょう。ただ僕は聡明じゃないので、切るに切れない…。まるでメンヘラ彼女ですね。ああ、こうやって共依存になっていくのか。なるほど。

賢明なる読者諸賢に問いたい。諸君ならこの場合どうするか。


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