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エッセイ#4『本の価値は0か100か』

「本の価値は0か100でしょ?」と母に言われた。この意見に私は断固として異議を唱える。

まず初めに、ここでは「読書」という娯楽に近い習慣に焦点を当てる、ということに触れておきたい。母と僕の会話における「本の価値」は「読書という習慣において」という文脈上の話だからだ。したがって、研究のための材料探しといった読書というよりかは調べ物に近い行為は対象とはしない。

結論から言えば、本の価値というものは「0か100」ではなく、「0から100のどこか」であると思う。価値が全くない本もあれば、10くらいの本もあるし、50くらいの本もあれば、90くらいの本もある。

もちろん、本の価値はそれをどう定義するかに依存する。僕の場合のそれは、ある本を読んだことで「恩恵」が得られるかどうか。とはいえ、他人の価値尺度を踏まえても、本の価値を「0か100か」で分類することは不可能である。

その価値尺度、すなわち本から享受する恩恵というのは、たとえば、「笑い」であったり、「知識」であったり、「美しい文章」だったりとさまざまだ。そして、それには大小が存在する。僕が思うに、本が根底から自分を変えてくれたようなとき、その本には100の価値が宿っている。また、そのような本でもなくても、おもしろおかしく書いてある本は、それでも50くらいの価値はある。

恩恵の複数性は、本が諸要素により構築されていることに由来する。ジャンル、分野、作者、文体、時代、出版社などの諸要素により本は構成されているのだ。

そして、構成要素が異なれば、そこから得られる恩恵も変化する。専門書であれば、読み手が重視するのものは「知識」であり、小説であれば「感動」だろう。

では、本の価値は得られるあるいは得ようと思っている恩恵の一つのみで決定づけられてしまうのか。つまり、自分が望んでいるものを収穫できれば100、そうでなければ0になってしまうのか。否、そんなことはない。

読書を習慣にしていると、偶然にも、自分が見ている世界を根本的に覆すような本と出会うことがある。運がいいと100冊に1冊の確率で出会える。この1冊の本が持つ価値を100とするならば、残りの99冊は無価値なのか。多くの人が首を横に振るに違いない。

その99冊にはみなそれぞれ異なる価値を持つ。それは、前述した通り、本は諸要素で構成されるからだ。思わずクスッとしてしまう本もあれば、なるほどと感心してしまう本もあるだろう。そうして、本から少しずつ生きるための糧を知らず知らず受けとり、僕たちは自己を形作るのである。たとえ、己が求めていなかったものだとしても、だ。

こう考えると、母の「本の価値は0か100か」というゼロサムの考えは間違っているように感じる。真偽は別にしても、少なくとも僕は本の価値をそのようには捉えていない。

本に対する価値尺度は、もちろん、人により違う。だから、ある本が高い価値を持っていても、別の人からすれば無価値なことも往々にしてありうる。

けれども、本という「モノ」全体を見たとき、その価値はゼロサムで分類され得るものではなく、グラデーションのように散らばっているのである。

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